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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    戴冠まであと少しと思わせる
    GⅠレースでの惜しい2着

    1998天皇賞(春)©H.Imai/JRA

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     父はリーディングサイヤーのサンデーサイレンス、母はサッカーボーイの全妹ゴールデンサッシュという血統で、94年3月24日、白老ファームで生まれた。オーナーは社台レースホース、管理するのは伯楽・池江泰郎調教師(当時)。新馬戦で手綱をとったのはオリビエ・ペリエ騎手という、絵に描いたようなエリートコースを歩もうとしていた。

     勝ち切れず、エリートコースには乗りそこねたが、いかにも良家のお坊っちゃまという感じの、細い流星のある端正な顔だちをしていた。古馬になってからも408㌔で出走したことがあったほどの小兵でありながら、大舞台で独特の存在感を見せつけた。

     4回あったGⅠ2着のうち、サイレンススズカに3/4馬身差し届かなかった98年の宝塚記念と、ゴール寸前でスペシャルウィークに伸び負けした99年の天皇賞(秋)のレースぶりなどは、戴冠まであと少しと思わせる内容だった。

     しかし、一流どころの揃うGⅠでも、メンバーが落ちるGⅡでも、同じように2、3着がつづいた。そうした状況を打破すべく、陣営は動いた。00年の天皇賞(春)までの37戦のうち33戦に騎乗してきた主戦の熊沢騎手に替え、過去に1度乗ったことのある武豊騎手を、新たな鞍上として指名したのだ。

     約2年半ぶりに武騎手を背に迎え、目黒記念に臨んだステイゴールドは、直線で馬群の間を鋭く伸び、2着に1馬身1/4の差をつけて優勝。3歳時の阿寒湖特別以来、約2年8カ月ぶりの勝利を挙げた。あれだけ大舞台に顔を出していながら、これが重賞初制覇。しかも、サンデーサイレンス産駒による重賞通算100勝目という節目の勝利であった。

     私が、この馬に「左にモタれる癖」があることを知ったのは、この少し前だった。
    「熊沢は、道中ずっと苦労して修正しながらよく乗っていたけど、あれだけモタれたら最後は苦しくなるよな」

     という、ある元騎手の言葉を聞き、それに気づかずにいた自分の観察力のなさが恥ずかしくなった。レースリプレイを見ると、確かに、3着になった99年の金鯱賞などは、直線で追い出して加速しかけたら内(左)にモタれ、立て直して追い出すとまた内に刺さりそうになっている。
    「あの馬は、どんなときでも左側にモタれると楽ができるということをわかっていて、いつでもそうする機会を狙っていたんですよ」そう話したのは、調教助手時代に稽古をつけていた池江泰寿調教師だ。

     実は、私がステイゴールドに関して聞いた話の大部分は、あの馬が引退してから何年も経ってからのものだ。

     ディープインパクトについて、当時の池江泰郎厩舎に所属していた池江敏行調教助手に話を聞くと、能力があるのに気性のせいでそれを引き出すのに苦労した馬として、決まってステイゴールドの名前が出てきた。

     池江泰寿調教師から聞いた話も、ステイゴールド自身のインタビューではなく、ドリームジャーニーやオルフェーヴルに関する取材で、産駒の気性について話しているうちに、自然と親父の話題が浮上してきたのだった。
    「本当に凶暴で、肉をやれば食うんじゃないかと思いましたよ」

     と、愛すべき友人を懐かしがるような表情で池江泰寿調教師が言ったときには、思わず笑ってしまった。

     いつもものすごく頑張っているのに、あとちょっとだけ能力が足りない気の毒な善戦マン――という私が抱いていたステイゴールド像は虚像だったようだ。

     考えてみれば、相手が強くても弱くても、あれだけコンスタントに2、3着に来ることができたのは、いつでも先頭でフィニッシュできる力がありながら、それを出し切らずにいたからだ、と見るほうが理に適っている。だから、怪我をすることもなく、引退まで50戦も走りつづけ、種牡馬としても強大なエネルギーを伝える余力を残していたのだろう。

    2000目黒記念:中団からレースを進めると直線で末脚を伸ばし、38戦目、6歳にして重賞初制覇を収めた©H.Imai/JRA

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