
優駿6月号 No.954
2023.05.22発売
[直前総力特集]
日本ダービープレビュー
90回目の祝祭へ!
山口シネマ=映像
この動画には音声はありません。「東京優駿大競走編成趣意書」が東京競馬倶楽部から発表されたのは1930年4月だった。2年後の32年に3歳(当時の年齢表記は4歳)になる内国産馬による芝2400㍍の大レースで、出走を希望する馬主や生産者は都合3回の登録を経て総額200円の登録料を支払う。優勝賞金は1万円、副賞として1500円相当の金杯、さらに登録料を分配する附加賞が加算されるというものだ。
東京競馬倶楽部の安田伊左衛門氏は、雑誌『馬の世界』(32年1月号)に寄せた「日本ダービーに就いて――東京優駿競走の話――」でこう書いている。
〈此のダービーを設けたがために、産馬地及び生産者を刺戟(しげき)して、競馬と生産とが一層深い關係(かんけい)を持つことになったのである。〉
生産と競馬を結びつける、イギリスのダービーのようなレースの創設は当時の競馬人の悲願でもあったのだ。
ところで、いまでは「優駿」は「すぐれた競走馬」という意味で使われているが、岩川隆氏の「広く天下に良駿を求む」(『優駿』83年6月号)によれば、「東京優駿大競走」のためにつくられた造語だったようだ。たしかに、それ以前は、馬や競馬について書かれたものに「優駿」という表現は見られない。そのためか、当時の競馬雑誌には「勇駿」とか「雄駿」というような誤植も見受けられる。
さて、「一万円の大競走」とも呼ばれた前代未聞のビッグレースの第1回登録は30年10月に締め切られ、168頭の1歳馬が登録している。登録者をみると、宮内省下総御料牧場、三菱財閥系の小岩井農場をはじめ北海道から鹿児島までの牧場、大倉喜七郎氏(大倉財閥)ら財界人に混じって、安田伊左衛門氏、競馬好きで知られた菊池寛氏の名前もある。
32年は前年におきた満州事変による軍需景気で日本は昭和恐慌を脱したかのようだったが、貧窮する農村では食い扶持を減らすために娘が売られたり、一家心中もあとを絶たず、街には失業者があふれ、労働争議が頻発していた。血盟団事件や五・一五事件など財閥や政治家を狙ったテロ事件も相次いだ物騒な時代だった。
第1回日本ダービーは4月24日に目黒競馬場(東京府荏原郡目黒町)でおこなわれた。当日は雨にもかかわらず1万人ほどの入場者があり、馬券もよく売れた。一戸建ての借家が月12円ほどで、巡査や小学校教員の初任給が50円前後、日雇い労働者は1円40銭の仕事にありつけるかどうかという時代に、馬券1枚(1点)が20円である。東京の競馬場はとんでもなく景気がいい。30年にはラジオが発売され、第1回日本ダービーもJOAK(NHKラジオ第一)で実況中継されている。
目黒競馬場は右回りで、記録映画として残るダービーのレース映像を見ると、ちょうど有馬記念のような感じだ。発走直前に雨は止み、スタンドは正装したファンが闊歩している。馬主が特権階級ならば、一般のファンも裕福な人たちばかりだ。
3回の登録を経て、最終的に出走してきたのは19頭(牡13頭、牝6頭)で、1番人気はワカタカだった。ここまで2戦1勝。3月の新呼馬(主催団体が購入して馬主に配布する抽籤馬に対する自由購買馬)は5着だったが、1週間前の新呼馬を10馬身差で勝ってきたワカタカは、スタートから先頭に立って逃げる。向こう正面で牝馬のアサハギが競りかけてきて、2周めの3コーナーでは2頭が後続を引き離し、4コーナーをまわるとワカタカの独走となった。2着に追い込んできたオオツカヤマとは4馬身差があった。
ワカタカは下総御料牧場の生産馬で、大種牡馬トウルヌソルの産駒。附加賞を含めた総額が2万3300円という大金を射止めたのは、神戸で造船業などを営む乾財閥の乾鼎一(ていいち)氏だった。
2023.05.22発売
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