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武豊と天皇賞(秋)
[特別企画]
スーパークリークからドウデュースまで、全7勝の軌跡
武豊と天皇賞(秋)2024年、歴代最多タイとなる天皇賞(秋)7勝目を挙げた武豊騎手。
初騎乗から35年。名馬たちと歩んだここまでの道のりを振り返る。

島田 明宏 Akihiro Shimada

    初勝利と牝馬での戴冠
    記録への序章

    「平成の盾男」と呼ばれた武豊騎手が天皇賞(秋)に初めて参戦したのはデビュー3年目の1989年。騎乗馬は、前年の菊花賞で人馬共にGⅠ初制覇を遂げたスーパークリークだった。 
     古馬になったこの年、筋肉痛のため春を休養にあてたスーパークリークは、復帰戦となった京都大賞典をレコードで快勝。次走が、イナリワン、オグリキャップ、そしてスーパークリークの「平成三強」が初めて揃った、この第100回天皇賞(秋)となった。
     ──オグリを負かすことが、このレースの勝利につながるはずだ。
     武騎手はそう考えていた。とてつもない瞬発力を持つオグリと、道中同じような位置につけては分が悪い。オグリより前に行き、序盤から脚を使わせ、ロングスパートで消耗させたい、と。しかし、スタート直後に最初のコーナーがあり、外枠が不利な東京芝2000㍍で、クリークは大外の14番枠を引いてしまった。対するオグリが引き当てたのは絶好の4番枠だった。 
     下馬評では圧倒的1番人気のオグリに、2番人気のクリーク、3番人気のメジロアルダン、4番人気のイナリワンらが挑む「一強」の図式だった。それでも武騎手は信じていた。
     ──ゲートからの1ハロンは、オグリよりクリークのほうが絶対に速い。 
     彼の思いが伝わったかのように、クリークは速いスタートを切り、最初のコーナーを回り切るときには3番手の外につけていた。オグリはクリークから4、5馬身後ろの内にいる。 
     最後の直線、ラスト400㍍付近で武騎手がゴーサインを出した。ラスト200㍍を切ったところで先頭に立ち、外から猛然と追い込んできたオグリをクビ差で封じ、勝利をおさめた。 
     武騎手にとっては同年の天皇賞(春)につづく盾連覇。翌90年の天皇賞(秋)はバンブーメモリーで3着。91年はメジロマックイーンで1位入線するも斜行のため最下位に降着となる。 
     そんな彼の天皇賞(秋)2勝目のパートナーとなったのは、競馬史に残る名牝、いや、名馬のエアグルーヴであった。96年のオークスを制したエアグルーヴは、秋華賞(10着)のレース中に骨折して休養。復帰戦となった翌97年6月のマーメイドS、つづく札幌記念を勝ち、牝馬同士のエリザベス女王杯ではなく、一線級の牡馬が相手となる天皇賞(秋)に駒を進めてきた。 
     1番人気は前年の覇者バブルガムフェローで、グルーヴは2番人気、95年の皐月賞馬ジェニュインが3番人気。 グルーヴは、道中、中団の外めにつけた。大逃げを打ったサイレンススズカが先頭のまま直線へ。3番手につけていたバブルガムフェローが馬場の真ん中から先頭をうかがう。 
     グルーヴは、ラスト200㍍地点で外からバブルに並びかけた。2頭は馬体を併せたまま内のサイレンススズカをかわし、後続を離してのマッチレースとなった。びっしり馬体を併せて競り合うと、牝馬は牡馬に威圧され、たとえ走力では優っていても負けてしまう、というのが、いわゆる「競馬の常識」だった。ところが武騎手は、バブルから離れようとするのではなく、右鞭を入れて馬体を併せたままグルーヴを叱咤しつづけ、クビ差の勝利をもぎ取った。牡馬の圧力に屈するどころか、逆に力でバブルをねじ伏せたのだ。 
     80年のプリテイキャスト以来17年ぶりとなる牝馬による天皇賞制覇という快挙。この年、グルーヴは、牝馬としてはトウメイ以来26年ぶり史上2頭目となる年度代表馬に選出された。
    「僕も含め、関係者は『牝馬は牝馬』と思いすぎていた。それを打ち破ったのがグルーヴじゃないですか」と武騎手。古馬の中・長距離で牝馬は牡馬に適わないという固定観念をグルーヴは打ち壊した。のちにウオッカがダービーで頂点に立ったり、ダイワスカーレットが有馬記念を勝ったりしたが、「名牝」が「名馬」となる道を示したのが、このレースだったと言えよう。

    10年で3勝。相棒はいずれも
    ダービー馬

     翌98年、武騎手はスペシャルウィークで「子供のころからの夢だった」という日本ダービー初制覇を果たす。夏にはシーキングザパールで仏モーリスドゲスト賞を勝ち、日本調教馬による海外G1初制覇を達成。充実したシーズンを過ごしていたが、天皇賞(秋)のレース中に騎乗馬のサイレンススズカが骨折して競走中止。予後不良で天に召されるという辛い経験もした。 
     99年の天皇賞(秋)にはスペシャルウィークで臨むことになった。同年の天皇賞(春)を制したスペシャルは、つづく宝塚記念で2着、秋初戦の京都大賞典ではデビュー以来初めて掲示板を外す7着に惨敗していた。それもあって、10月31日の第120回天皇賞(秋)では、セイウンスカイ、ツルマルツヨシ、メジロブライトに次ぐ4番人気の支持にとどまった。 
     確かに、状態は好調時に及ばなかった。だが、ひとつ、大きなプラス材料があった。それは、武器の瞬発力が生きる東京競馬場が舞台となることだった。3着となった前年のジャパンCでは岡部幸雄騎手(当時)が騎乗しており、武騎手がスペシャルウィークで東京のレースに参戦するのは、5馬身差で圧勝したダービー以来だ。いいイメージを持って臨むことができる。
     流れがどうあれ、この馬の最大限の力を引き出す乗り方をすると決めた武騎手は、道中は馬群の後方で折り合いをつけ、直線勝負に出た。 
     スペシャルウィークは大外から鋭く伸びた。ラスト200㍍地点で先頭から5、6馬身にまで迫り、最後の数完歩で並びかけ、差し切った。 
     もともと、新馬戦の前に初めて跨ったときからダービーを意識し、瞬発力を最大限に引き出すための英才教育を施してきた馬だ。持ち前の切れ味は健在で、見事、同一年の天皇賞春秋制覇をやってのけたのである。 
     8年後の2007年、日本で36年ぶりに馬インフルエンザが発生した。
     8月15日に美浦で、翌16日には栗東トレーニング・センターでも感染が確認され、18、19日のJRA開催が中止になり、その後、地方競馬でも続々と開催が中止された。 この年の秋から武騎手が主戦となるメイショウサムソンは、凱旋門賞参戦を予定していたが、陽性反応が出て遠征を断念。武豊・メイショウサムソンのコンビ初戦は10月28日の第136回天皇賞(秋)になった。 
     武騎手は、メイショウサムソンがコースロスなく運べる1枠1番を引いた時点で、「よし、もらった」と思ったという。1番人気は、同一年春秋連覇のかかるサムソン。2番人気はアドマイヤムーン、3番人気は前年からの連覇を狙うダイワメジャーだった。 
     好スタートを切ったサムソンは好位の内を進んだ。
     逃げたコスモバルクが先頭のまま直線に向いた。ラスト400㍍手前で外によれたコスモバルクを避けるようにエイシンデピュティが斜行し、外めから抜け出そうとしたダイワメジャーとアドマイヤムーンがそのあおりを食らう形で不利を受けた。 
     コスモバルクの内にいたサムソンは不利を受けることなく抜け出した。ここでも内枠が奏功したのだ。独走態勢に入ったサムソンは、2着に2馬身半差をつけてゴールした。この2馬身半差というのは、3戦目の2歳未勝利戦に並ぶ、自己最大の着差だった。馬群から抜け出す脚には、接戦で相手を競り落としてきたこの馬のイメージを一転させるほどの鋭さがあった。
     サムソンは翌年の凱旋門賞で10着に敗れた。武騎手は「天皇賞(秋)を勝ったときに行きたかった」と振り返る。それほど鮮やかな勝ち方だった。 
     翌08年、武騎手はウオッカとのコンビで第138回天皇賞(秋)に臨んだ。この馬に初めて騎乗した実戦は同年のドバイデューティフリーで、4着。帰国初戦のヴィクトリアマイルは2着。次走の安田記念は岩田康誠騎手が乗って優勝。武騎手に手綱が戻った秋初戦の毎日王冠は2着と、結果を出せないままこのレースを迎えていた。 
     本馬場入場のとき、武騎手はウオッカに外ラチ沿いをゆっくり歩かせた。観客にウオッカの晴れ姿を披露していたわけではなく、逆に、ウオッカに観客を見せていたのだ。 
     ――この人たちが大きな声を出しても大丈夫なんだよ。 
     と、ウオッカに伝えていたのだ。 
     ゲートが開いた。ライバルのダイワスカーレットが先頭に立ち、後続との差をひろげていく。 
     ウオッカは中団の外めにつけた。
     1000㍍通過は58秒7と、やや速い流れになった。
     先頭のダイワスカーレットが、手綱を引っ張ったまま直線に向いた。
     ウオッカは3、4コーナー中間の勝負どころから進出し、直線入口で、内のディープスカイに馬一頭ぶんほど間隔を置いて並びかけた。
     ラスト400㍍を切った。スカーレットが後ろを突き放しにかかる。そうはさせじと、馬場の真ん中からウオッカとディープスカイが末脚を伸ばす。
     ラスト200㍍。ウオッカが突き抜けるかに見えたが、ディープスカイが差し返す。内ラチ沿いで先頭を走るスカーレットも驚異的な二の脚を使い、差はジワジワとしか詰まらない。 
     ウオッカが、ゴールまで5、6完歩のところでディープスカイを競り落とした。内からカンパニーも猛然と追い込んでくる。今度こそ呑み込まれるかに見えたスカーレットは、圧力に屈することなく、またグイッと前に出た。
     ラスト2完歩。ウオッカがスカーレットに並びかけた。
     ラスト1完歩。ウオッカは大きなストライドを伸ばし、内のスカーレットと鼻面を揃えてゴールに飛び込んだ。ウオッカかスカーレットか。どちらが勝ったのか、肉眼ではまったくわからなかった。映像でもそれは同じで、ゴールのシーンが流れるたびに、場内は異様などよめきに包まれた。
     1分57秒2。従来のタイムをコンマ8秒も短縮するレコード決着だった。「ゴールの瞬間伝説になった」とも言われたこのレースの勝者は、13分に及ぶ写真判定のすえ明らかになった。
     ウオッカが、僅か2㌢差の激戦を制していた。
     武騎手にとって、天皇賞(秋)は5勝目。春秋で11勝目となり、日本にモンキー乗りを普及させた保田隆芳元騎手が保持していた記録を追い抜いた。
     これはまた、武騎手がウオッカの背で初めて手にした勝利でもあった。

    記憶に残る、対照的な
    神騎乗

     このレースとは別の意味で「究極の消耗戦」となったのが、17年の第156回天皇賞(秋)だった。雨のなか、26年ぶりに不良馬場で行われたこのレースで彼が騎乗したのは、キタサンブラックだった。
     先行すると見られていたキタサンブラックは、ゲートに突進し、顔をぶつけて出遅れた。最初のコーナーを後方5、6番手で回り、向正面へ。
     しかし、武騎手は動じていなかった。「必ずしも前に行くと決めていたわけではなかった。各馬が内に殺到してこない馬場状態だったので、後ろからでもスムーズに運べました」
     それでも道中は前と外に馬群の壁があり、身動きがとれない状態だった。
     その状況が、3コーナー過ぎで一変する。キタサンブラックは他馬のいない内をショートカットし、4コーナーで2番手までポジションを上げたのだ。「特殊な芝になっていたので、返し馬で走り方をチェックしました。普通の馬とは違う体の強さがあるので、こなせると思いました」
     直線に向くと、馬場のいい外めに持ち出し、スパートした。ラスト400㍍地点で先頭に立ち、一気に突き放ししにかかる。そのまま後続に抜かせることなく、クビ差で勝利をおさめた。
     ラスト3ハロンはメンバー最速ながら38秒5もかかったことが、このレースのタフさを示している。勝ちタイムはレコードより12秒2も遅い2分8秒3。このレースが84年に2000㍍になってから最も遅かった。「神騎乗」が導き出した「逆レコード」であった。 そして今年の第170回天皇賞(秋)。武騎手のドウデュースは他馬と横並びのスタートを切ったが、内と外の馬を先に行かせ、道中は先頭から10馬身ほど離れた後方2番手を進んだ。
     1000㍍通過は59秒9。良馬場で、強豪揃いのこのメンバーにとってはスローペースと言っていい。それでも武騎手は重心を後ろにかけて手綱を抑え、後方のまま3、4コーナーを回り、直線へ。外に持ち出して追い出すタイミングをはかっているが、ラスト400㍍でもまだ後方2番手だ。そこから手綱を持ち直して促すと、ドウデュースは四肢の回転を一気に速め、猛スパートをかける。大外から別次元のスピードで次々と内の馬をかわし、ラスト100㍍地点では誰の目にも勝敗が明らかになっていた。凄まじい勢いで突き抜けたドウデュースが、2着を1馬身1/4突き放して勝った。
     「ラストに賭けようと思っていました。中途半端なレースはしたくなかった。これでダメならしょうがないという気持ちで腹を括って乗りました」
    そう話した武騎手にとって、これが天皇賞(秋)7勝目。保田隆芳元騎手に並ぶ最多タイ記録だ。前年は当日の第5レース終了後、騎乗馬に蹴られて乗り替わるアクシデントがあった。その悔しさを、見事な手綱さばきでレース史上最速の32秒5という異次元の末脚を引き出し、晴らした。
     7勝すべてが、唯一無二の名レースとして、私たちの記憶に残っている。

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