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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 24

7歳ラストランでG1制覇
ステイゴールドの特別さ

島田 明宏 AKIHIRO SHIMADA

2017年6月号掲載

5歳までは"善戦マン"だったステイゴールドだが、6歳春に重賞初勝利、7歳の引退レースでG1初制覇を果たす。勝つときは鮮やか、長く競走生活を続けこともあり人気を博した。

     ステイゴールドは「猛獣系」のキャラクターである――と広く知れわたったのは、いつごろのことだったのか。

     少なくとも私は、競走生活の晩年近くまで知らなかった。それどころか、「いつも頑張って2、3着に来る、けなげな頑張り屋さん」といった、ほぼ真逆のキャラだと思い込んでいた。

     この馬は、デビュー3戦目の未勝利戦で最終コーナーを曲がろうとせず、熊沢重文騎手を落馬させ、競走を中止している。3歳(新年齢表記、以下同)になった1997年2月15日のことだった。早くから気の悪さを思いっきり出していたわけだが、私がその競走中止の詳細を知ったのは何年も経ってからだったし、正直に言うと、そのころはステイゴールドという馬がいたことすら知らなかった。

     その年、97年のクラシック戦線は、今年(2017年)と同じように主役不在の大混戦と言われていた。終わってみれば、春の二冠をサニーブライアンが制し、ほかにもメジロブライト、シルクジャスティス、サイレンススズカ、ランニングゲイル、エリモダンディーなど錚々たるメンバーが揃っていた。

     そんななか、ステイゴールドはダービーの翌週、ようやく500万下を勝ち、9月に900万下の阿寒湖特別で3勝目を挙げる。そして重賞初参戦の京都新聞杯で4着、次走の菊花賞で8着となった。

     私がこの馬の存在を知ったのはそのころで、意識するようになったのは、次走のゴールデンホイップTから98年2月のダイヤモンドSまで4戦連続2着になったころからだ。

     つづく日経賞で4着となったあと、天皇賞(春)ではメジロブライトの2着、目黒記念3着、宝塚記念でサイレンススズカの2着と、シルバー&ブロンズコレクターぶりを本格的に発揮しはじめる。

     その後も、天皇賞(秋)ではオフサイドトラップの2着、有馬記念ではグラスワンダーの3着、翌99年の日経賞から宝塚記念まで、天皇賞(春)の5着をはさんで4戦も3着となり、天皇賞(秋)では2着。

     狙ってやろうとしても、なかなかこれだけ2、3着をつづけられるものではない。私はこういう馬が大好きで、カシマウイング、ランニングフリー、ナイスネイチャといった、往年のシルバー&ブロンズコレクターたちの姿を重ね、微笑ましい気持ちで眺めていた。

     カシマウイングは80年代半ばから90年にかけて走り、41戦8勝2着14回3着3回というシルバーコレクターだった。GⅡを3勝したが、ラストランの90年天皇賞(春)は3着だった。

     同い年のランニングフリーも重賞を3勝した強い馬だったが、88年の天皇賞(春)で2着になったほか、GⅡ、GⅢでも2着2回3着3回と、勝ち切れないところがあった。

     ナイスネイチャは91年から93年まで有馬記念で3年連続3着という記録を持つブロンズコレクターだ。94年7月のGⅡ高松宮杯で2年7カ月ぶりの勝利を挙げたときは大きな拍手と声援が贈られた。

     カシマウイングとランニングフリーが走ったときには、イナリワン、オグリキャップ、スーパークリークの平成三強がいて、ナイスネイチャはトウカイテイオーと同い年だった。生まれた時代が悪かったとも言え、そんなところも人々に愛される要因になっていた。

     ステイゴールドも、古馬になってからスペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダーといった、武豊騎手いわく「世界中見わたしても強い3頭」を相手にしながら、GⅠでもGⅡでも上位に顔を出しつづけた。
    「善戦マン」という言葉がナイスネイチャに対してしばしば使われたが、ステイゴールドも同じように見られ、多くの人々に応援されるようになっていった。

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