story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 56
戦時下を駆けた無敗の名牝
クリフジと若き天才
2020年9月号掲載
今から約80年前、負け知らずでタイトルを積み重ねた名牝がいた。
デビューから20日あまりで日本ダービーを、そしてその後オークス、菊花賞にも勝利。
手綱を取った若き天才騎手の存在とともに、今なお競馬史に輝き続ける。
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デビュー2年目の
若手騎手との出会い
戦時中、日本ダービー、オークス、菊花賞の「変則三冠」を含め11戦11勝。栗毛の女傑クリフジが残したこの成績は、旧八大競走を含めた最多全勝記録である。
クリフジは、1940(昭和15)年3月12日、千葉県の宮内省下総御料牧場(1922年から1942年までは「宮内省下総牧場」)で生まれた。父トウルヌソル、母賢藤。「ミスターケイバ」と呼ばれた栗林商船社長の栗林友二が所有し、「大尾形」こと尾形藤吉が管理した。
父トウルヌソルは、1927年にイギリスから輸入され、最多タイのダービー馬6頭を送り出す名種牡馬だ。母賢藤は、17頭の帝室御賞典優勝馬を出した種牡馬チヤペルブラムプトンの娘で、競走馬時代はケンユウという名で走り5勝した。
大きな流星が目立つクリフジの血統名は「年藤」だった。旧3歳時にセリに出され、「牧場で顔を見たとき、これはいい馬だと思った」という栗林によって、4万円で落札された。ダービーの優勝賞金が1万円だったことを考えると、4万円でも相当な高馬であったことがわかる。栗林の冠「クリ」と母の名の一部から、クリフジと名づけられた。
東京競馬場の尾形厩舎に入ったクリフジは、デビュー前、旧4歳時の1943年2月、調教中に自分の後ろ脚で前脚を蹴って骨膜炎を患い、仕上がりが遅れた。当初は八木澤勝美が稽古をつけていたのだが、八木澤にはダービーを狙えるお手馬ミヨノセンリがいた。そのため、師匠の尾形は、八木澤の弟弟子の若手騎手をクリフジの鞍上に指名した。
前田長吉である。前田は1923(大正12)年2月23日、青森県三戸郡是川村(現八戸市是川)で生まれた。19歳になった1942年にデビューし、同年、12戦5勝、2着2回という成績をおさめる。クリフジほどの良血の期待馬には、実績のある騎手を乗せるのが普通だが、前田の兄弟子で、尾形厩舎の主戦騎手になろうとしていた保田隆芳は、1940年の終わりに中国に出征していた。それもあって前田が指名されたわけだが、前田は師匠から非常に高く評価されていた。尾形は著書『競馬ひとすじ』にこう書いている。
〈前田長吉は(略)馬にさからわずに柔らかく乗り、見ていると、まるで自然に飛んでゆくようだった。頭もよく、(略)天才騎手といえるほどの少年で、これはいいのが出てきたと私は非常に楽しみに思った〉
クリフジのデビュー戦は5月16日、東京芝1800㍍の新呼馬。クリフジより高額の6万円で落札された牡馬トシシロも出走し、クリフジと単勝人気を二分していた。
当日の天候は雨。重馬場発表だった。跳びの綺麗な馬だけに道悪はどうかと前田は不安に感じていたのだが、クリフジは案外苦にするようなところは見せなかった。ゆっくりとスタートして道中は動かず脚を溜め、直線だけで2着のトシシロらを差し切り、初陣を勝利で飾った。
翌週、5月21日の午後、大本営により、連合艦隊司令長官の山本五十六が4月に死亡していたことが発表された。国民的英雄だった山本の戦死は、日本中に衝撃を与えた。