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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 57

怪我とライバルに勝利した遅咲きの桜
サクラローレルを包んだ期待

三好 達彦 TATSUHIKO MIYOSHI

2020年10月号掲載

度重なる怪我を乗り越え、5歳で初GI挑戦の天皇賞(春)と有馬記念を勝利。
数々の苦悩がありながら手にしたタイトルの影には、
陣営が一貫して抱きつづけた思いがあった。

    ©M.Yamada

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     1996年の天皇賞(春)と有馬記念を制して同年の年度代表馬に輝いたサクラローレルは数多いるGIウイナーのなかでも特に異質な成功を見せた優駿である。何より目立つのは、その遅咲きぶりだ。同い年のナリタブライアンが無敵の三冠ロードを突き進んでいたころ、彼はまだ条件戦を勝ち上がるのに四苦八苦している凡庸な馬にすぎなかったのだから。

           ◇        

     サクラローレルは、いわゆる「持込馬」である。

     母ローラローラはローレルと同じく、“サクラ”の冠号で知られるオーナーの全演植(ジョンヨンシク)がフランスで走らせていた馬である。戦績は6戦1勝に終わったが、繁殖入りしてから現地で初仔を産んだのち、胎内にレインボウクエストの仔を宿したまま海を越え、“サクラ”の活躍馬を多く生産してきた北海道静内町(現・新ひだか町)の谷岡牧場で牡駒を出産した。それがサクラローレルだった。

     やはり“サクラ”の主戦厩舎を率いた境勝太郎調教師(当時)はサクラローレルが生まれた直後にその様子を見ており、のちに「皮膚がとても薄くて、いい馬でした。馬相が良かったね」と振り返っている。しかし実際には、境はこの牡駒を預かることを決めかねた。この頃、“サクラ”の主戦騎手として二度の日本ダービー制覇などの華々しい戦果を挙げていた小島太の子息、良太が谷岡牧場で育成担当として勤めていたのだが、彼によると牧場時代のローレルは「ひょろっとした馬。細くて長い不格好な」馬だったという。結果的には境が預かることにはなるものの、それが決まったのは2歳になってからだったことが、その証言の正しさを裏付けている(小島良太はその後、美浦トレーニング・センターの調教助手となり、境勝太郎厩舎でサクラローレルを担当する)。

     成長が遅れ、なおかつ脚元にも弱さを持っていた凱旋門賞馬の息子はなかなか出走できるまでの状態に仕上がらなかった。「骨膜炎がひどい」(境)状態ではあったが、やっとのことでデビューに漕ぎ付けたのは3歳の1月になってのことだった。

    苦節の末オープン入りも
    現役生活を揺るがす大怪我

    怪我により長く苦しい時期も経験したサクラローレルだが、ターフに姿を見せればその持てる能力を誇示した©JRA

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     新馬戦ではその血統も評判になって、単勝オッズ1・8倍の1番人気に推されたものの9着に大敗。折り返しの新馬戦も3着に敗れたサクラローレルが初勝利を挙げたのは、脚元への負担を考慮して矛先を変えた次走、ダート1400㍍の未勝利戦だった。その後もダービー出走を目指して“押せ押せ”のローテーションで使われて、3月のダート1800㍍で2勝目を挙げ、次に臨んだのは日本ダービーへの優先出走権がかかる青葉賞。ここで後方から豪快な追い込みを見せて、勝ったエアダブリンから0秒1差の3着に食い込んで優先出走権を確保したものの、デビュー前からのフィジカルのウィークポイントだった右後肢の球節が炎症を起こしてしていることがわかり、休養に入る。

     秋の始動戦に選んだ9月の新潟(900万下)を3着したのち、菊花賞出走の夢をかけて臨んだセントライト記念では重馬場に脚をとられて8着に大敗。クラシックの舞台に立てずじまいに終わったサクラローレルだったが、徐々に脚元の状態が快方に向かったこともあり、11月に900万下、12月に1500万下の特別戦を連勝。94年1年間で実に13戦を要しながらオープン入りを果たし、ようやく次の目標である天皇賞制覇へ向けてのスタートラインに立った。

     その充実ぶりを表すような勝利を挙げたのは4歳初戦の金杯・東。本来は苦手な重馬場となったが、それをまったく気にする素振りを見せず、4コーナーを2番手で回ると一気に突き抜けて重賞初制覇を達成した。

     そして4連勝、重賞連勝をかけて臨んだ目黒記念では単勝オッズ1・5倍の1番人気に推された。その期待に応えるように、余裕の手応えで早めに先頭に立ってゴールを目指すサクラローレルだったが、その外からハギノリアルキングの強襲を受けてクビ差の2着に敗れてしまう。

     そしてその後、さらにショッキングな出来事が起きる。天皇賞(春)を目指して栗東トレーニング・センターに入っての調教で両前脚を骨折したのである。診断は「両前脚第三中手骨骨折」という重傷で、獣医師からは「競走能力喪失に等しい」と伝えられた。

     この診断を突き付けられた場合、競走馬登録を抹消して現役を引退させるのが普通だが、奥深い欧州血統を持つこの馬のポテンシャルに魅入られていた境勝太郎は諦めきれなかった。「どんなに長くかかってもいいから、もう一度再起させたい」との思いで現役続行を決めた。

    1995年 金杯・東 ● 優勝 3歳春に青葉賞で3着し、日本ダービー出走権を得ながら球節炎で無念の回避。 条件戦連勝で挑んだ4歳初戦で重賞初制覇©K.Yamamoto

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    1996年 中山記念 ● 優勝 天皇賞(春)を目指した矢先、両前脚骨折の重症を負い1年以上の休養。 復帰戦から横山典弘騎手とコンビを組み勝利を飾った©JRA

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