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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    スマートなライバルと比べて
    泥臭い存在として大レースを制覇

    1999宝塚記念:4コーナーで1番人気スペシャルウィークを射程圏に入れると、最後は3馬身差で快勝©M.Sakitani

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     しかし実際のグラスワンダーはどうであったか。「強いが愛されない馬」であったかというと、そんなはずはない。むしろ最終的には日本産馬と同じかそれ以上に愛され、認められる存在になったはずである。

     なにがそれを可能にしたのか。20年後に振り返ってみるなら、グラスワンダーの挫折や苦悩、克服や再起、好敵手の存在、名勝負、そこに付随する物語性……それらすべてが日本人好みの要素に満ちていたからではないかと思う。

     はじまりは3歳春に判明した骨折だった。当時、ニュージーランドトロフィーからNHKマイルカップという路線は、内国産馬にとってのトライアルとダービーにあたる存在。そこへの出走機会を失うことは、敗北と同じかそれ以上の喪失であった。

     しかもそのNHKマイルカップをモノにしたのは、遅れてデビューし、自分と同じく的場均を鞍上に迎えていたエルコンドルパサー。これが3歳秋に大きな意味を持ってくる。

     3歳秋、グラスワンダーとエルコンドルパサーがともに初戦として選んだのが毎日王冠だった。いまのようにマル混の重賞がいくらでもある時代ではない。互いに譲れないレース選択。お手馬がかち合った的場がどちらを選ぶのか、ファンは固唾を飲んで見守った。

     的場はグラスワンダーを選び、そして毎日王冠では5着に敗れた。一世代上で内国産馬のエース的存在だったサイレンススズカ、そして同期でマル外どうしのエルコンドルパサーとともに三強と呼ばれながら、自分だけ馬券にも絡めない屈辱を味わった。

     しかしそれでファンがグラスワンダーと的場を嘲ったかというと、そんなことはない。むしろその戦い方を評価し、苦渋の選択には同情していたはずだ。逃げたサイレンススズカ(1着)を負かすために早めから動いていったのはグラスワンダーであり、その結果としてエルコンドルパサー(2着)に後れをとったとしても、それは自身の価値を損なうものではなかった。

     ところが続くアルゼンチン共和国杯で、この人馬はさらに厳しい結果に直面する。まさかの6着大敗。トップハンデと500㌘しか違わない57㌔を3歳の身で背負っていたとはいえ、言い訳のきかない内容だった。的場の選択は間違いだったのか? 同情よりも重い、つらい感情をファンも抱きつつあった。

     仮にこのままグラスワンダーが敗北の闇に埋もれていったなら、彼はいまのように記憶されることもなく、競馬史上の意味を持つこともなかっただろう。しかしグラスワンダーは復活する。メジロブライト、ステイゴールド、セイウンスカイ、エアグルーヴ……内国産の名だたるメンバーを抑えての有馬記念優勝。それはもちろん、自分を選んでくれた的場への恩返しでもある。これはいかにも日本の競馬ファンが好む物語だ。

     4歳時のグラスワンダーは、当時を知らない人が成績だけを振り返ったなら、ただ順調だったように見えるかもしれない。せいぜい安田記念でエアジハードにハナ差交わされたことくらいしか、マイナスを見出せないかもしれない。

     実際には、すべてが順調だったわけではない。春には調整がうまくいかず使いたいレースに使えなかったし、秋にはジャパンカップ出走を断念せざるをえなかった。そういった苦悩や挫折を乗り越えての宝塚記念制覇、有馬記念制覇だったからこそ、ファンもぐっと来たのだ。

     一言で言うなら、グラスワンダーは泥臭い存在であったと思うのだ。同期のエルコンドルパサーと比較すればそれは分かる。エルコンドルパサーにも挫折や苦悩はあっただろう。ただ結果として生涯をすべて連対で終えており、馬券外に5回敗れたグラスワンダーとは対照的だ。引退もエルコンドルパサーは価値が頂点に達した4歳秋にスマートに去っていったが、グラスワンダーは5歳時に3回掲示板を外し、ボロボロになってターフを後にした。競走馬として目指したものも、エルコンドルパサーが凱旋門賞を頂点とする「世界」だったのに対し、グラスワンダーは春秋グランプリという日本の旧来的な価値観である。

     ただそのぶん、グラスワンダーが恵まれたものがある。それはライバルと名勝負だ。ちょうど日本産馬もトニービンやサンデーサイレンスを得て力をつけつつあった時期。古馬の中長距離GⅠには充分な陣容が整っていた。その中でもやはり特筆すべきはスペシャルウィークであり、レースとしては99年の有馬記念だろう。レース後、勝利を確信するスペシャルウィークと武豊。しかし着順掲示板のいちばん上に「7」が点り、一転してスポットライトはグラスワンダーを照らすこととなった。これだけのライバルを相手に、意図したものでないとはいえ、このような記憶に残る勝ち方をする。これまた、日本人好みの物語である。

     この99年といえば、年度代表馬選びが紛糾した年でもある。最終的にエルコンドルパサーが年度代表馬となり、スペシャルウィークとグラスワンダーには特別賞が与えられた。しかしこの決定には疑問の声も多く上がり、表彰の規則が変更されるきっかけにもなった。

     ここで面白いのが、紛糾の対立軸がマル外2頭とスペシャルウィークではなく、主にエルコンドルパサー対スペシャルウィーク・グラスワンダーだったということだ。要するに海外競馬に価値を見出すか否かという対立だったのだろう。それは前述した開放主義と保護主義の構図にも似ているのだが、そこにおいてマル外のグラスワンダーがすっかり日本側を代表する立場になっていたのが興味深い。それだけグラスワンダーは日本の競馬に溶け込み、日本人好みの属性を身につけていたのだと考えられる。

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