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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    資質を見出されるも
    我慢となった3歳春

    1988年 京都新聞杯 ● 6着 春はオープン特別Vも、骨折で目標は秋へ。菊花賞出走をもくろむがよもやの不利が重なる(右桃帽)©JRA

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     スーパークリークがデビューしたのは、1987年12月5日の阪神2歳新馬戦であった。育成牧場から函館競馬場へ入厩後に体調を崩したとは言え、陣営はこの馬に合ったレースが行われる師走まで満を持すことにした。今も昔も2歳2000㍍新馬戦というレースは多くは組まれず、それほど伊藤修司は同馬のステイヤーとして資質を感じ、この初舞台を用意したのだろう。スーパークリークは日本の競走馬としては珍しく、現役時代2000㍍以上の距離だけを走っている事実からも伊藤の確信が理解できる。因みに1987年という年は後に同馬の主戦騎手となる武豊がデビューした年でもあり、こうした偶然もサラブレッドに関わる人馬の繋がりを感じさせる。

     デビュー戦は3番手について最後の直線で先行馬を追うものの、まだ緩さが残り内にもたれて2着に終わっている。今ほど大型馬がいない当時の502㌔という馬体も結果として絞れたとは言い切れず、「叩いて良化」の期待も含んだ3週間後の2戦目で初勝利を挙げた。

     明けて1988年。日本競馬界は複数の3歳馬の台頭で盛り上がりを見せていた。皐月賞ではヤエノムテキ、そして日本ダービーでサクラチヨノオーが優勝。2歳時に圧倒的な強さを見せていたサッカーボーイもこの世代であり、笠松競馬場で連勝街道をひた走っていた怪物オグリキャップが中央競馬に移籍したのもこの年の春で、地方馬ゆえにクラシック登録がない同馬の秋以降のGIでの可能性に夢を抱くファンが徐々に増え始めてもいた。

     表舞台で躍動するそうした同期の重賞馬達と比べると、夏の時点でのスーパークリークはまだ日陰の存在だった。年明け初戦の福寿草特別は4着で、クラシック路線への挑戦となった2月14日のGⅢきさらぎ賞では3着に終わっていた。それに続く3月19日のすみれ賞では武豊との初のコラボレーションが実現し優勝していたが、その後は体調を崩し、さらに軽度の骨折を負ってしまい半年間レースから離れることになったのだ。私自身、多くのサラブレッドを育ててみて、また顧客の代理で現役馬のマネジメントに関わってみると、3歳の夏を如何にして越すかというのがひとつのテーマになっている。生物学的にはまだ未熟な軽種馬の3歳を使い減りしないように大事に育て、後に大輪を咲かせる状況を用意するためだ。この時期のスーパークリークはまだ体調面で不安定であり、骨折したことで長期の準備期間を確保できたことは、上のレベルへ到達するために大きく寄与したのではないかと、本稿を書き進めながら結論付けてみたくなる。

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