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出走馬の様子
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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    力を試した海外遠征から
    レコード続きの快進撃

     秋。タケシバオーは菊花賞には出走せず、海外の舞台で戦うことを選択した。

     アメリカで行われるワシントンDCインターナショナル招待競走。世界の強豪が覇を競う伝統のレース。タケシバオー陣営の元に招待状が届き、オーナーの小畑は「日本馬の力を国際レースで試したい」と招待を快諾した。前年にはスピードシンボリが挑戦して5着。それ以前にも2頭の実力馬が参戦しているが高い壁に跳ね返されていた。加えて、まだ4歳(現表記・3歳)。まさに大胆な決断だった。

     惨敗。8頭立ての8着。世界との実力の差を見せつけられる結果に終わった。が、この大敗がタケシバオーの闘争心に火をつけた。新しい年を迎えた69年、タケシバオーは怪物になった。

     2月の東京新聞杯から国内では最後のレースとなった9月のスプリンターズステークス(この年は「英国フェア開催記念」として実施)まで、8連勝を記録している。単に連勝というだけでは、それほど驚かないかもしれないが、その内容を知れば、当時、彼の走りを目撃していた者が怪物、そして“最強馬”と表現することも理解してもらえると思う。

     そのひとつひとつのレースを詳しく記す余裕はない。足早に振り返っておくことにする。

     前述の東京新聞杯。この年はダート2100㍍の舞台で争われたが、レコードタイムで走り抜け、6馬身差の完勝。続くオープン戦(ダート1700㍍)も圧勝したが、驚異的だったのはその走破タイムだった。1分41秒9。43秒台で走れば優秀と思われたタイムを2秒近くも上回り、ファン以上に競馬関係者を驚かせた。ちなみに2003年に同条件のレースがなくなるまで、この記録は破られることはなかった。

     快進撃は続く。天皇賞(春)への前哨戦、京都記念(芝2400㍍)。62㌔の負担重量を課せられたが、タケシバオーにとっては問題ではなかった。着差こそ2馬身にも満たなかったが、楽勝だった。余談だが、このレースでの馬体重は500㌔。入厩当時から100㌔、デビュー時から40㌔も増えたことになる。まさに重戦車を思わせるタケシバオーは、立ち向かう敵を次々となぎ倒していく。京都記念のあと、オープン戦に出走、芝1600㍍戦の日本レコードを記録して本番に向かった。

    1969年東京新聞杯●優勝:アメリカ遠征を含めて8戦、勝ちがなく挑んだダート2100㍍戦。鬱憤を晴らすレコード勝ちを飾り、ここから連勝街道を歩み始めた©JRA

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    1969年オープン●優勝:3月のダート1700㍍戦は全16勝のうち、最長着差(大差)を付けて1分41秒9のレコード勝ち。東京競馬場での記録はこの先、破られなかった©JRA

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