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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 36

時代と戦い続けた外国生まれの“女傑”。
ヒシアマゾンの挑戦

三好 達彦 TATSUHIKO MIYOSHI

2018年8月号掲載

父は米国の名サイヤー、母は愛国のクラシック馬と輝かしい血統背景を持ち、2歳女王となったヒシアマゾン。翌年のエリザベス女王杯では、同世代のクラシックホース2頭を撃破し、その後は牡馬を相手にGⅠ戦線で息の長い活躍を見せた。ここでは、彼女の挑戦の歩みを振り返ろう。

    ©H.Watanabe

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     いかなる歴史的アスリートでも、生きた時代の制約から逃れることはできない。たとえば女子マラソンが五輪に初めて正式種目として採用されたのはわずか30数年前の1984年である。それは競走馬とて同じこと。90年代前半を駆け抜けたアメリカ生まれの名牝ヒシアマゾンの競走生活は、中央競馬にまだ外国産馬にきわめて不利な制約が適用されていた〝時代〟に翻弄され続けた。

              ◇

     木材卸の阿部木材工業を起こした阿部雅信は1940年代、中央競馬の前身である国営競馬の時代に馬主資格を取得し、「ヒシ」の冠号を用いて多くの競走馬を走らせた。初代のヒシマサル(安田記念など重賞4勝)、その仔ヒシマサヒデ(安田記念など重賞3勝)、またその仔ヒシスピード(京成杯など重賞3勝)を生産・所有し、“自家血統”にこだわったオーナーシップでその名を知られた人物である。その一方で、ゆかりの血にこだわりすぎるあまり、所有馬の多くは活躍できずに終わり、その低迷は本業を圧迫するほどだったともいわれる。

     雅信のあとを継いで阿部木材工業の二代目社長となった長男の阿部雅一郎も、幼少のみぎりに父から競馬に関しての薫陶も受け、自然と馬主となっていた。辣腕の企業家として家業を複合的企業として大きく成長させた雅一郎は、馬主としても新機軸を打ち出す。雅信がこだわった“自家血統”の馬を一掃し、外国での購買、生産に乗り出すのである。

     89年、手始めに米国の繁殖セールへ参加し、愛1000ギニーの勝ち馬であるKaties(ケイティーズ)を100万ドル(当時のレートで約1億3000万円)で競り落とす。Katiesは米国ケンタッキー州にある名門牧場テイラーメイドファームに預託され、阿部がオーナーとなってから2年目には、現役時代にブリーダーズCターフなど米GⅠ6勝を挙げた名種牡馬Theatrical(シアトリカル)が付けられた。そこで生まれたのが、日本に輸入されて旋風を巻き起こす、のちのヒシアマゾンである。

    レベルの違いを見せた阪神3歳牝馬S。結果を伝えるスポーツ紙には〝金髪美女〟、〝舶来パワーだ!〟といった見出しが躍った©F.Nakao

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    「外国産の“女傑”あらわる」
    ファンの人気は瞬く間に沸騰

     ヒシアマゾンは1歳の秋に日本へ運ばれ、千葉にある大東牧場で育成が開始された。細身でさほど目立つような存在ではなく、美浦トレーニング・センターへ入厩する頃にも、阿部が米国での生産について相談を持ち掛けた調教師の中野隆良が「オーナーに迷惑をかけないぐらいは走りそう」というぐらいの様子だったという。しかし予想に反して調教を積むにしたがって動きはどんどん良化し、GⅠとまでは言わないが、順調にいけばいずれは重賞の一つや二つは取れるのではないかと厩舎スタッフの口の端に上るようになっていった。

     血統や走法から「芝向き」であるとスタッフの意見が一致していたヒシアマゾンではあったが、ソエ(若駒に多い管骨の炎症)が出かかっていたため、脚元への負担が少なくて済むダート戦でデビューさせることになったのは2歳秋のこと。鞍上は前年に初めて重賞勝利を挙げたばかりの中堅騎手で、日頃から中野厩舎の調教を手伝っていた縁もある中舘英二に決まった。中舘はこのあとヒシアマゾンの全20戦中18戦で手綱をとる“主戦騎手”となる。

     9月19日、中山のダート1200㍍の新馬戦。いわゆる“折り返し”の新馬戦で、ここがデビュー戦となったヒシアマゾンだが、調教の動きが評価されて単勝2・4倍の1番人気に推された。レースでは牡馬のノボリリュウにしぶとく食い下がられたものの、それを振り切って勝利を挙げた。

     スポット騎乗となる江田照男に手綱を預けて臨んだ2戦目のプラタナス賞(500万下・ダート1400㍍)はクビ差の2着に敗れたが、ソエの状態が良くなってきたこともあり、陣営は3戦目に初めて芝のレースを選んだ。1400㍍のGⅡ戦、京成杯3歳S(現・京王杯2歳S)である。

     初の芝に動じるどころか、ここがホームグラウンドだと言わんばかりの素軽いフットワークを披露したヒシアマゾンは3番手を進むと、直線でいったんは先頭へと抜け出した。最後、猛追してきたヤマニンアビリティにクビ差屈したが、3着のインディードスルーは4馬身も後方にいた。レース後、重賞で牡馬と互角の勝負ができた能力の高さを認識するとともに、中野と中舘は「だんぜん芝の走りのほうがいい」という意見で一致した。

     ここで陣営は一つの選択を迫られる。年内にもう一回、阪神3歳牝馬S(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)に使うかどうかである。

     当時、外国産馬はクラシック競走と天皇賞に出走できないという制限があった。アメリカ生まれのヒシアマゾンはこのまま休養して次年度を迎えると、当然ながら桜花賞とオークスには出走できず、まだNHKマイルCも創設前だったため、春シーズンはGⅠレースに参戦できないままになってしまう。9月のデビューから4戦目、京成杯3歳Sから中2週という強行軍にはなるが、少し無理をしてでも阪神へ向かいたいというのが中野の本音だった。幸いにしてレース後の体調も良かったため、栗東トレーニング・センターへ輸送しての調教を経て、阪神3歳牝馬Sに臨む運びとなった。ここで彼女が秘めていた能力がついにベールを脱ぐ。

     引っ張り切れない手応えで3番手を進み、直線の入口では“馬なり”で先頭に立ったヒシアマゾンは、鞍上の中舘のゴーサインを受けると一気に後続を引き離し、ゴールした瞬間には、のちに桜花賞で3着に入るローブモンタントを5馬身もちぎり捨てていた。1分35秒9という時計は当時の古馬のコースレコードに0秒3差に迫る出色の記録(ちなみに翌年の桜花賞よりも0秒5も速かった)。そして「外国産の“女傑”あらわる」の評判に反応したファンの人気は瞬く間に沸騰した。

    クリスタルCでは、タイキウルフが直線入口で後続を突き放し、逃げ切り濃厚の展開となるも、「鬼脚」を披露して瞬く間に交わした©K.Yamamoto

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