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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    世界との戦いへと誘ってくれた
    外国産馬隆盛の時代に

    ©H.Watanabe

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     2000年のファシグティプトン・フロリダセール、ヒップナンバー140番。芦毛の牡馬が43万ドルで落札された。1回目の公開調教で2ハロン21秒6の好タイムをマークしていたこの馬こそが、クロフネである。

     43万ドルという価格は、いまのセールではさほど目立つものではない。しかし当時300頭以上が上場されていたこのセールにおいては価格順11位。この年このセールで日本人が購買した中では最高価格であった。

     そして当時、このくらいの「マル外」を輸入すれば、かなりの確率で活躍が見込めるものでもあった。もちろんクロフネのようにGⅠを勝つというのは特別な成功例だが、マル外の日本における勝ち上がり率や1頭あたりの獲得賞金は、いまより遥かに高いものだった。

     ここでいったんクロフネから離れて、日本競馬と外国産馬の関係性をおさらいさせていただきたい。

     活馬の輸入自由化(1971年)以降、日本の馬産地は輸入馬の脅威に怯え、それを警戒しつづけてきた。馬産地保護のためマル外が出走できる混合競走(マル混)は数が限られ、いまは内国産扱いになる持込馬までもが外国産扱いされていたこともある。それによってマルゼンスキーがダービーに出走できなかったことは有名な話だ。

     しかし、時代とともにマル混の数は増え、円貨も強くなり、馬主には輸入馬を買う動機が増した。一気に数が増えだしたのはクロフネ(98年産)の数世代前からで、91年産世代ははじめてJRAの競走に3ケタ、138頭のマル外が出走。ピークとなった95年産世代は、実に389頭が出走していた。クロフネと同世代も289頭が出走している。参考までに現3歳世代は126頭だったから、2倍・3倍の規模ということになる。

     この「マル外ブーム」は、日本の競馬ファンに新たな地平を見せてもくれた。日本調教馬としてはじめて欧州のG1レースを制したのは、94年産の外国産馬シーキングザパール(モーリスドゲスト賞)。直後には同世代のタイキシャトルが、ジャックルマロワ賞というビッグタイトルをもたらした。

     続く95年産の世代には、エルコンドルパサーがいた。サンクルー大賞を制し、凱旋門賞ではモンジューを相手に2着。昭和の時代にはリアリティが無いほどの憧れだった世界へ、マル外たちは簡単に連れていってくれたのだ。

     本当はクロフネもこれらに続く存在として、ただ強さを誇るマル外というふるまいを期待されていたのかもしれない。そしていくつかのレースでは実際に、素晴らしい強さを見せた。

     ただ、クロフネは最終的に、強さだけを残したのではない。時代背景や日本産馬の反撃もあって、もっと複雑で面白い存在となったというのが筆者の考えだ。そのキャリアを振り返っていこう。

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