競馬場レースイメージ
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出走馬の様子
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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    3歳秋の骨折による休養が
    かえって進路を良き方向へ向かわす

    熱発明けのオークスも〝一強″を印象付ける走りだった©H.Imai/JRA

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     伊藤に見初められたエアグルーヴは95年に入厩する。名コンビとなる武豊との接点は、もちろんこの後のことである。
    「当時、伊藤厩舎で調教助手をやっていた笹田(和秀・現調教師)さんに『もの凄く良い馬がいる』と聞きました」

     笹田から「絶対に乗った方が良い」と勧められ、跨ってみると、「本当に良い馬だった」と言う。

     札幌競馬場、芝1200㍍のデビュー戦は2着に敗れてしまうのだが、伊藤は悲観していなかった。
    「初戦は『競馬は苦しくない』ということを教えれば充分。だからうちの厩舎では、後に出世する馬でも新馬戦を負けることがよくありました」

     実際、1度使われたことで2戦目は楽勝した。武豊は当時の感触を次のように語った。
    「未完成だけど、真っ直ぐ走っていたし、良いモノは感じました。だから先々は絶対良くなってくるだろうと思いました」

     続くいちょうSを連勝したエアグルーヴだが、更に次走となる阪神3歳牝馬S(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ)では、先約のあった武豊が乗れず、外国人騎手が騎乗。「結果的に彼がマークする馬を間違えたかな……」(伊藤)ということで2着に惜敗してしまう。ジョッキーという“最後のパーツ”で母ダイナカールの桜花賞と同じ轍を踏むことになったかと思えた(乗り替わりそのものがどうだったか、という話で、乗り替わった騎手に問題があったということではない)が、オークスで鞍上が元のパートナーに戻るところまで同じ。そして、結果も同じように先頭でゴールを切るのだった。
    「距離が延びるのはむしろ良いと思っていたので、オークスは自信がありました。ただ、その前に桜花賞を熱発で回避していたので、それだけが多少、心配材料でしたけど……」

     武豊はそう言うと、更に続けた。
    「外枠だったけど、レースセンスがあるので枠順は気になりませんでした。流れが遅かったので、内に入ってゴチャつくより外をスムーズに走らせた方が良いと判断しました」

     かくして18頭立ての15番枠からスタートを切ったエアグルーヴは、最初の5ハロン通過が63秒台という遅い流れにも馬群の外をゆったり追走。直線では脚の上がった各馬がフラフラするシーンもあったが、それに巻き込まれることなく、堂々と抜け出してみせたのだった。

     母仔二代によるオークス制覇。

     これだけでもエアグルーヴは大きな功績を残したと言える。しかし、彼女のその後の軌跡を改めてみると、この偉業でさえもプロローグに過ぎないことが分かるのだった。

     3歳の秋にはこの年、新設されたGⅠ・秋華賞にぶっつけで出走し、1番人気に推されたが10着と大敗してしまう。最終的に19戦した彼女にとって唯一掲示板を外した大敗となるわけだが、武豊が「イレ込んで精神面のモロさが出てしまった」と言えば、伊藤は「最後までレースに集中せずに終わってしまった」と語り、いずれも気性面に敗因を求めた。

     もちろん、それもあっただろう。しかし、レース後には骨折も判明し、心身共に運が向かなかったことが分かる。そして、これによりひと息入れなくてはならなくなったことが、かえって彼女の進路を良き方向へ向かわすのだから、競馬は何が起きるか分からない。

     97年6月22日。秋華賞から約8カ月のブランクをあけてマーメイドSに出走した。
    「ここを叩いて次走は札幌記念というのは決まっていました。休み明けだったし、決して万全のデキではなく、余裕残しの仕上げだったと思います」

     武豊のこの見解を伊藤は首肯。果たしてマーメイドSを楽勝し、オークス馬は復活した。
    「秋の天皇賞を考慮した上で予定通り札幌記念に向かいました」

     続くレースに札幌記念を選んだ理由を伊藤はそう語った。スプリントやマイルならともかく、牝馬が2000㍍や2400㍍といった路線で活躍するのは難しいと考えられていた時代である。実際、秋の天皇賞を牝馬が制したのは17年前のプリテイキャストが最後。2000㍍に距離が変更になってから13年間の勝者は全て牡馬だった。しかし、伊藤にはひとつの考えがあった。
    「札幌記念にはジェニュインが出走すると聞いていました」

     ジェニュインは皐月賞とマイルチャンピオンシップのGⅠを2勝。直前の安田記念でも勝ったタイキブリザードとクビ差の2着に好走している実力馬だった。
    「この馬とどのくらいの差の競馬が出来るか……。それ次第で、天皇賞に挑戦する考えもありだと計算していたんです」

     結果は「どれくらいの競馬が出来るか?」などというものではなかった。2着エリモシックに2馬身半の差をつけエアグルーヴは快勝。4着に敗れたジェニュインには実に3馬身の差をつけてみせたのだ。
    「これで秋の路線がハッキリしました。路線というか、天皇賞でも好勝負できるだろうという計算がたったので、ジャパンCや有馬記念も視野に入れることが出来ました」と伊藤。そして、天皇賞は札幌記念以上に良い状態で出走させることが出来たと続けた。
    「札幌記念の後も良い感じで調教を積めて、当日は目の色、体のハリ、飼い葉食いなど、どれをとっても文句のつけようがなかった。最高の状態で出走させることが出来ました」

     もっとも、先述したように、この路線では牝馬がなかなか通用しなかった時代である。例えば86年に圧倒的な強さで史上初の牝馬三冠馬となったメジロラモーヌは有馬記念で2番人気に支持されながらも9着に敗れていた。翌87年、牝馬二冠馬となったマックスビューティも、有馬記念で10着に敗れたほか、古馬の牡馬もまじる重賞はついぞ勝てずに終わった。93年に桜花賞とオークスを制し、エリザベス女王杯でも3着に好走したベガは、有馬記念で9着と敗れると、その後、2戦、牡馬相手の重賞ではやはり9、13着と大敗した。いずれ名だたる牝馬達が揃いも揃って跳ね返されていた事実をかんがみると、エアグルーヴをしても厳しいと思うことはなかったのか……。武豊は言う。
    「一抹の不安がなかったわけではありません。でも、逆に言えば不安はそこだけ。牡馬の一線級にどこまで出来るのかな?と。感触としては良かったし、勝つチャンスは充分にあると思っていました」

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