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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    ひょろっとした体形ながら
    デビューから快走の連続

    1950年 朝日盃3歳S ● 優勝 稍重馬場で行われたが、トキノミノルがイツセイに4馬身差をつけて逃げ切り勝ちをおさめた©JRA

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     田中厩舎は「大尾形」こと尾形藤吉厩舎と並び称せられる名門で、セントライトのほか、39年のダービー馬クモハタ、41年の桜花賞馬ブランドソールなど数々の名馬を育てたほか、吉川英治、舟橋聖一ら、菊池寛の影響で馬主となった作家たちの所有馬も管理していた。

     さて、デビュー2戦目、札幌ダート1000㍍のオープンも楽に逃げ切ったトキノミノルは、3戦目、札幌ダート1200㍍の札幌Sで1分13秒1のレコードタイムで大差の逃げ切り勝ちをおさめる。

     北海道から府中の田中厩舎に移動したとき、永田は初めてこの馬と対面した。「器量はあまりよくないな」と漏らしたという。体重は440㌔前後で、ひょろっとして、脚の長い体形だった。コンパクトなボディに大排気量のエンジンを搭載していたあたり、ディープインパクトのようなタイプだったのか。

     4戦目、中山芝1000㍍のオープンを6馬身差、中山芝1100㍍の3歳馬優勝競走では4馬身差で、ともにレコード勝ち。次走、10頭立てとなった朝日盃3歳Sを4馬身差で制し、デビューから6連勝で、旧3歳王者の座についた。

     翌年、旧4歳になった51年も快進撃はつづいた。

     年明け初戦、中山芝1800㍍の4歳選抜Hでは59㌔という酷量を背負いながら、2着を3馬身突き放してレコード勝ち。次走は東京芝1800㍍の4歳オープン戦。8戦目にして初めて「ホーム」と言うべき田中厩舎のある東京での実戦となり、2馬身差で楽勝。なお、前年の朝日盃からこのレースまで、3戦つづけて2着はイツセイであった。

     9戦目はクラシック三冠競走の皮切りとなる5月13日の皐月賞。トキノミノルの名は競馬界の枠を超え、一般メディアでも見られるようになっていた。実は当時の国営競馬は、今からは考えられないほどの苦境に立たされていた。控除率が37%ほどだったため25%の競輪人気に押され気味で、前年12月の競馬法改正によって25%に引き下げられた。さらに、不祥事が相次いだ競輪が2カ月間の開催自粛をし、ファンが流れてくるかと思いきや、潤ったのは平日開催の地方競馬だった。同年2月12日付の「夕刊読売」によると、関東だけ見ても馬の比率は国営の230頭に対し地方は600頭。1月だけで36頭も地方に流出した。初代ダービージョッキーの函館孫作調教師が南関東に移籍したのもこのころだ。

     そんな国営競馬の救世主になるかと大きな期待が寄せられたトキノミノルは、皐月賞もレコードで快勝。戦績を9戦9勝とした。

     しかし、事は順調には運ばなかった。トキノミノルは慢性的な膝の痛みを抱えていた。皐月賞後もそれに苦しめられ、ようやく治まって調教に出たら、今度は蹄から出血。裂蹄である。ダービー3日前の5月31日、木曜日。追い切りに騎乗した岩下は、馬を壊さないよう1マイル111秒、半マイル51秒、3ハロン38秒という軽めの走りにとどめたため、翌日の新聞で「不安発生か」と報じられた。さらに右前脚の裏筋に熱を持ち、「出走取消説」も取り沙汰されたが、名医と言われた松葉重雄獣医による治療と陣営の努力により、ダービー前日には熱も腫れもなくなっていた。

     この年からダービーの1着賞金が百万円に増額され、「百万円ダービー」と呼ばれていた。当日は快晴だった。東京競馬場には7万人ほどが詰めかけ、内馬場と障害コースにも客を入れるほどの盛況だった。敗戦から6年。朝鮮戦争の影響で急速に復興しつつあった時代を象徴するヒーローが誕生しようとしていた。

    1951年 皐月賞 ● 優勝 好スタートから先手を奪ったトキノミノルがイツセイに2馬身差をつけ、2分3秒0のレコード勝ち©JRA

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