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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    奥手が一気に花開きタイトルを
    引っ提げての海外挑戦

    1966年 京成杯 ● 優勝 デビュー3戦目で初勝利を挙げ、7戦目の京成杯で重賞初制覇(写真左)。三冠戦線に挑むこととなった©JRA

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    1966年 菊花賞 ● 2着 皐月賞21着、ダービー8着と苦戦を強いられるも、菊花賞ではナスノコトブキに鼻差まで迫る(写真外)©JRA

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    「三元育成」で鍛えられたスピードシンボリは65年10月に野平富久厩舎(中山)からデビューする。野平富久は母のスイートインを管理していた野平省三の長男で、スピードシンボリの主戦騎手となる野平祐二の兄である。

     スピードシンボリは奥手の馬だった。2歳時に3勝し、3歳の春には京成杯に勝っているが、皐月賞21着、ダービーも8着に敗れた。そのあと、菊花賞では14番人気で2着になった。1番人気のナスノコトブキをゴール前で激しく追いあげ、鼻差まで迫っている。

     菊花賞を境にしてスピードシンボリは大きく変わる。有馬記念も3着と健闘し、4歳になるとアメリカJCCと目黒記念を連勝し、春の天皇賞ではカブトシローを破って優勝する。単勝1・8倍の人気に応える堂々たる勝利だった。つづく日本経済賞も3馬身差で完勝し、秋に備えて岩手で英気を養っているとき、アメリカからうれしい知らせが届いた。ワシントンD.C.インターナショナルへの招待だった。

     67年のワシントンD.C.インターナショナルはアメリカの二冠馬ダマスカス(吉田善哉の勝負服で走ったアメリカ産馬タクラマカンの父)をはじめ、アメリカの芝の最強馬、フォートマーシー、イギリスのリボッコ(アイルランドダービー、のちに日本で種牡馬)などの強豪が顔を揃え、スピードシンボリは9頭中最低人気だったが、スタートから二番手を進み、優勝したフォートマーシーから8馬身1/4ほど離された5着に踏ん張っている。ヨーロッパでも最強クラスのリボッコ(7着)に先着したのだから大健闘といえた。

     ワシントンD.C.インターナショナルは60、70年代の日本でもっとも知られていた外国のレースで、62年のタカマガハラ(10着)から80年のハシクランツ(8着)まで8頭(9回)が参戦しているが、ほとんどが優勝馬から大きく離された大敗で、スピードシンボリの5着は日本馬の最高成績として残っている。

     しかし、健闘はしたものの、はじめての海外遠征のダメージは想像以上に大きかった。帰国初戦の有馬記念で4着に負けたスピードシンボリの体調はなかなかもとに戻らず、5歳の春は3戦して勝てなかった。秋になってようやく本来の調子を取り戻すと、アルゼンチンJCC(現アルゼンチン共和国杯)などに3連勝する。それを見た和田にあらたなプランが芽生えていた。ヨーロッパ遠征である。有馬記念は3着に終わったが、翌年も現役を続行することになった。

    1967年 アメリカJCC ● 優勝 有馬記念3着の後の4歳初戦。菊花賞で敗れたナスノコトブキ、天皇賞馬ハクズイコウらもいるなか完勝©JRA

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    1967年 天皇賞(春) ● 優勝 目黒記念(春)も制し、単勝1番人気に。前を行くカブトシローをゴール前捉え旧八大競走初制覇(写真中)©JRA

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