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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    涙の重賞初勝利を飾るも
    高まる周囲からの重圧

    1999年 きさらぎ賞 ● 優勝 2戦目で初勝利。重賞初挑戦でGI2着馬エイシンキャメロンを退け、渡辺騎手と共に重賞初Vを果たした(赤帽)©F.Nakao

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     96年春、トップロードは北海道門別の佐々木牧場に生まれた。父のサッカーボーイは88年のマイルチャンピオンシップを勝ち、芝の中距離で力を示した。「種付けの頃、産駒がちょうど走っていたので選びました」と牧場の3代目、佐々木孝の回顧が残っている。

     一方の母フローラルマジックは、91年に輸入された外国馬だ。米三冠馬にして2年連続の年度代表馬に輝いたアファームドを父に持つ。来日後は全日本3歳優駿を勝ったホウシュウサルーン、若葉Sを勝ったグリーンプレゼンスらを産んだ。トップロードは6番仔に当たる。余談ながら、姉ペイパーレインものちに輸入され、有馬記念馬のマツリダゴッホを産んだ。同馬をキーンランドで落札した岡田スタッド代表の岡田牧雄は「ナリタトップロードの菊花賞のあとでした。それで競ってみたんです。アンダービッター(最後まで競り合った相手)も日本のバイヤーでしたね」と当時を振り返った。

     トップロードの通算成績は30戦8勝、2着6回、3着8回。2歳12月からの丸4年間、強豪と相まみえながら、実に7度の重賞制覇を成し遂げた。この戦績は、同馬の競走能力の高さを端的に示している。ただ、ファンの胸にとりわけの深い印象を残したのはクラシックにおける戦いであり、そのため本稿も3歳時を中心に書き進めていく。

     デビュー戦は98年12月5日の阪神、芝2000㍍の新馬だった。1番人気ながら2着に敗れたため、当時は同開催であれば出走できた“折り返しの新馬”にて初勝利をあげた。だが、この頃は道中で掛かり、よく口を切った。そのため沖は、続く福寿草特別に臨む際、「折り合い重視で」と渡辺に指示を出した。結果として、先行馬を捕まえきれず3着に敗れたものの、これ以降、折り合いには苦労しなくなったという。高い学習能力がトップロードの持ち味だった。

     また、頭をクッと下げ、四肢をしっかり伸ばすフォームが美しかった。馬体を覆う深みある栗毛も目を引いた。そうした特徴もまた、同馬の人気を押し上げる要因となった。

     2月のきさらぎ賞が重賞初挑戦だった。1番人気エイシンキャメロンとの競り合いを制して、人馬共に、これが初の重賞制覇となった。

     レース後には大粒の涙を流す関係者の姿があった。調教師の沖だ。「渡辺が勝ったことが嬉しい」と心中を素直に吐露した。父親が厩舎所属の厩務員であった縁から、沖は渡辺を初めての弟子に取ったのだ。デビューから早6年目、遂に手にした重賞の重みは、弟子よりも師匠にこそ重く感じられたのだろう。

     だが、ここから先は沖にも“渡辺を乗せ続けるのか?”と周囲から重圧が掛かり始める。それでも一貫して渡辺に任せたのは、“トップロードとの戦いを糧に一人前になってほしい”の思いが強かったからだ。“ナリタ・オースミ”の冠名で有名なオーナー山路秀則も何も言わなかった。その恩情を沖は深く感謝した。

     3月の弥生賞では、早めの進出からベガの追撃を封じ込めた。これで重賞2連勝、一連の結果から、皐月賞では“二強対決”のムードが高まった。だが、その一冠目を制したのは、追加登録料と共に出走に踏み切ったオペラオーだった。中山の坂上で先行勢をゴボウ抜きにした末脚は圧巻そのものだった。そして、ダービー直前の3歳牡馬の勢力図は“三強”へと変化した。

     ベガが制した二冠目については冒頭に記したとおりである。繰り返すが渡辺の騎乗は満点だった。だが、武はより上を行く120点を取った。私は今なおこう思っている。武にとって、絶対の悲願だったダービー制覇を達成していなければ、4コーナーであそこまでの我慢ができただろうか、と。99年のダービーにて命運を分けたものとは、前年の結果であったように思えてならないのである。

     レース後、検量室で見た渡辺の涙には、実は引き金があった。

    「よく乗った。力、出し切ったな」

     下馬した渡辺に、沖がそう声をかけたという。聞いた途端、渡辺の目から涙がこぼれ落ちた。師弟に通じる情の作り出した、それは何とも切なく、何とも優しい光景だった。

    1999年 弥生賞 ● 優勝 アドマイヤベガとの初対決。早めに前を捉えにかかると、後続の追い込みを振り切って連勝でクラシックへ向かう©M.Watabe

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