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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    玉砕覚悟のライバルにも
    先を譲らず先頭へ

    1975年皐月賞●優勝:単勝オッズ2.3倍で迎えた一冠目。道中は競りかけられるも、3コーナーで先頭に立ち、最後まで勢いは衰えなかった©JRA

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     右回りでは案外スムーズなレースができるカブラヤオーは、弥生賞では関西のエース格ロングホークを完封して5連勝を飾った。そのロングホークがスプリングステークスを楽勝したことで、皐月賞は単勝2・3倍の大本命となった。

     人気を背負ってクラシックを逃げきるのがどれだけ難しいかは歴史が証明している。実際、皐月賞とダービーを1番人気で逃げきった馬はカブラヤオーの前にはいない。それでも、馬を恐がるカブラヤオーは逃げざるを得ない。この欠点はカブラヤオーの引退後に菅原によってあきらかにされるのだが、当時はマスコミに知られないように苦労した、と菅原は言う。

    「調教でも、隠れて馬を仕上げるのがたいへんだった。知ってるのは、わたしと厩務員、それに菅野と赤羽秀男(茂木厩舎の騎手)だけだったから、『絶対に人に言っちゃだめだぞ』って口封じしてね」

     しかし一筋縄ではいかないのがクラシックだ。皐月賞では関西のレイクスプリンターが執拗に競りかけてきた。名前どおりの短距離血統(父サウンドトラック)でブービーの21番人気の馬だ。その結果、前半1000㍍を58秒9のハイペースで逃げ合うことになる。向こう正面まで競り合い、3コーナーの手前でようやく振りきったカブラヤオーはそこから地力をみせ、逃げきっている。2着ロングホーク、3着エリモジョージ。レイクスプリンターはカブラヤオーから37秒3も遅れてゴールにたどりついたが、故障し、安楽死処置がとられた。まさしく玉砕だった。

     つづくNHK杯はカブラヤオーが唯一「抑えて競馬ができたレース」(菅原)だった。関西の逃げ馬トップジローが先手を奪い、カブラヤオーはほかの馬と馬体を並べないように三、四番手の外をまわりながら、うまくレースを運んできた。しかし、3コーナー付近で馬を恐がりだしたので、菅原はゴーサインをだす。結果、2着のロングフアスト(皐月賞4着)に6馬身差をつけて独走した。

     ここまで8戦7勝、2着1回、重賞4連勝のカブラヤオーは単勝2・4倍の1番人気になる。さすがにダービー当日は菅原も緊張していたが、スタートさえ互角ならば負けないと思っていた。

    「でも、ダービーはかならず「テレビ馬」がでるからね」

     と言って菅原は笑った。

    「テレビ馬」とは、まるで「テレビに映りたい」とばかりに一か八かの逃げを敢行する馬をいう。この年のダービーの「テレビ馬」はトップジローだった。ゲートが開くと同時に先頭を奪ったカブラヤオーを、絶対に逃げさせないとばかりに内から競りかけてくる。それでも、カブラヤオーは先を譲ることなく、2コーナーをまわったところで突きはなした。しかし、最初の1000㍍は58秒6。皐月賞を上回るペースである。

     向こう正面で一度スピードをゆるめ、3コーナーを過ぎたところでふたたび加速していくのだが、直線に向くとさすがに余力がなくなっていた。残り400㍍をきったあたりから外にふらつきだし、最後の200㍍は13秒3と完全に脚があがっていた。しかし、ほかの馬たちは追いかけてくるだけで精一杯だった。2着ロングフアスト、3着ハーバーヤング。トップジローはカブラヤオーから5秒6遅れての26着。うしろにはまだ2頭いた。

     それにしても、無茶で、すさまじいレースである。仮柵もなかった当時の荒れた馬場で、いまの時代でも暴走といわれる速いペースで逃げ、ダービーを逃げきってしまったのだ。そんな馬はあとにもさきにもいない。恐るべき逃げ馬である。

     三冠の期待がかかったカブラヤオーは9月になって左前脚に屈腱炎を発症する。4歳の5月に復帰して4戦3勝(唯一の負けは、ゲートで頭をぶつけて脳しんとうを起こして最下位)と復活の兆しを見せていたが、目標の秋の天皇賞を前に屈腱炎を再発し、引退が決まった。

     76年3月に茂木為二郎が急逝し、復帰後のカブラヤオーは森末之助厩舎(東京)に所属していた。じつは、トウショウボーイは茂木厩舎にはいる予定だったが、茂木が病気がちだったために、保田隆芳厩舎からデビューした経緯がある。菅原泰夫はカブラヤオーとテスコガビーの翌年、トウショウボーイにも乗る可能性があったのである。(文中敬称略)

    1975年NHK杯●優勝:日本ダービーを前に好位の外を追走する競馬を試み、勝利。不良馬場をものともせず、6馬身差の圧勝でファンの期待は高まった©JRA

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    ダービーに挑むカブラヤオーと菅原騎手。2400㍍に距離が延びても、得意の逃げを選択した©JRA

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    1975年日本ダービー●優勝:皐月賞を上回る前半1000㍍58秒6のペースを押し切り二冠達成。だが、屈腱炎を発症し、三冠の夢は幻となった©JRA

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    カブラヤオー KABURAYA O

    1972年6月13日生 牡 黒鹿毛

    ファラモンド
    カブラヤ(父ダラノーア)
    馬主
    加藤よし子氏
    調教師
    茂木為二郎(東京)→森末之助(東京)
    生産牧場
    十勝育成牧場(北海道新冠町)
    通算成績
    13戦11勝
    総収得賞金
    1億7958万7300円
    主な勝ち鞍
    75日本ダービー/75皐月賞/75東京4歳S/75弥生賞/75NHK杯
    JRA賞受賞歴
    75優駿賞年度代表馬、優駿賞最優秀4歳牡馬

    2019年10月号

    江面 弘也 KOYA EZURA

    1960年生まれ、福島県出身。東京理科大学を卒業後、㈱中央競馬ピーアール・センターに入社。雑誌『優駿』の編集に携わった後、フリーとなる。著書に「サラブレッド・ビジネス ラムタラと日本競馬」「活字競馬に挑んだ二人の男」「名馬を読む」「昭和の名騎手」など。

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