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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 42

幻のまま、超光速で駆けた名血
アグネスタキオンの血筋

江面 弘也 KOYA EZURA

2019年4月号掲載

祖母はオークス馬、母は桜花賞馬、兄はダービー馬―。偉大な血脈の元に生まれ、その期待にたがわぬ圧勝でハイレベル世代のライバル達に影をも踏ませなかった。わずか4戦での引退になったが、ターフに残した大きな功績を振り返る。

    ©H.Watanabe

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     アグネスタキオンという名馬は母方の血統を抜きにして語れない。祖母のアグネスレディーから母のフローラ、そしてフライトとタキオン兄弟へとつづく「アグネス一族」の物語だ。だからやっぱり、ひとりの調教師から書きはじめる。

     調教師は吉永猛(たける)という、地味な男である。34年の調教師生活で670勝と一流の数字を残しているのだが、重賞勝ちは13でしかない。それには理由があった。「きれいな仕事をする」「馬主に損をさせない」「安い馬で勝つ」ことをモットーにしていた吉永は売れ残った馬でも脚が曲がった馬でも預かり、辛抱強く育てながら走らせることに調教師としてのやりがいを感じていた。

    「会心」だと吉永が言う仕事のひとつに、せりでも声がかからず「ただでもいいから預かってくれ」と頼まれた馬を重賞(阪神牝馬特別)に勝たせたことがある。桜花賞(20着)とオークス(10着)にも出走させ、オープンであのキタノカチドキを破ったラッキーオイチである。

     そんな吉永が携わった牝馬にイコマエイカンがいた。1967年に北海道三石町(現新ひだか町)の原口勝太郎の牧場でうまれたイコマエイカンは、母のヘザーランズが受胎した状態でイギリスから輸入された、いわゆる「持込馬」である。価格は500万円。吉永厩舎の牝馬ではなかなかの価格だったが、もともと脚元が弱く、故障がちで9戦(1勝)しかできなかった。それでも母親になればいい仔がでるだろうと考えた吉永の口添えで、三石の折手正義牧場で繁殖牝馬となった。

     イコマエイカンには馬主の伊藤忠雄がたまたま種付け株をもっていた種牡馬リマンドを毎年種付けされるのだが、偶然とはいえ、この配合は抜群の相性だった。76年には最初の産駒グレイトファイターが小倉大賞典に勝ち、2年めのクインリマンドが桜花賞で2着になった。吉永厩舎のイコマエイカン産駒が話題となったその年に5番めの産駒―兄姉とおなじリマンドを父にもつ牝馬―がうまれる。だが、兄姉が活躍する仔馬の評価は吉永の手が届かないところまで跳ねあがっていた。

    祖母アグネスレディーの勝利が
    初めてのビッグタイトルだった

     イコマエイカンの5番めの仔を買ったのは大阪で印刷関連会社(株式会社コムテックス)を営む渡辺孝男という新進馬主だった。のちに渡辺は「女馬で1700万円。だれも手がでなかった」と語っている(『優駿』00年7月号「杉本清の競馬談義」)。妻を亡くしていた渡辺は、ふたり娘と共通の話題をもとうとして、長女がファンだったアグネス・チャンの名前を冠名にした。「アグネス」の最初の活躍馬は78年のダービーで2着になったアグネスホープで、一歳年下のイコマエイカンの娘はアグネスレディーと名付けられ、栗東トレーニング・センターの長浜彦三郎厩舎に預けられる。

     余談になるが、当時はもうひとつの「アグネス」が走っていて、アグネスビューチー(76年東京新聞杯)などの馬主はカシュウチカラ(79年天皇賞(春))の生産者として知られる吉田権三郎である。

     アグネスレディーには3戦めから武田作十郎厩舎の河内洋が乗っている。武田と親友だった長浜彦三郎は「作のところの兄ちゃん」と呼んで河内をかわいがり、早くから厩舎の主戦として起用してきたが、アグネスレディーも河内を背にしてオークスに勝った。馬主と生産者と調教師と騎手と、みんなが初めて手にするビッグタイトルであった。

     アグネスレディーがオークス馬になった79年は、吉永猛厩舎にいたイコマエイカンの4番めの産駒タマモリマンドも5連勝で京阪杯に勝っている。イコマエイカンはアグネスレディーまで5頭の仔を産み、2頭の牝馬は桜花賞2着馬とオークス馬で、2頭の牡馬が重賞に勝ち、日高の名繁殖牝馬として脚光を浴びるようになっていた。

    祖母アグネスレディー:重賞未勝利ながら、1番人気に支持された1979年オークスで優勝。同年の最優秀4歳牝馬(当時)に選出された©JRA

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