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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    ぬかるんだコースも苦にせず
    史上初の父子二代皐月賞制覇

    日本ダービー:最後方からレースを進め、3コーナーあたりからまくっていくと、いつものように直線で豪脚を炸裂させて完勝©H.Imai/JRA

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     3歳のはじめはまだミスターシービーはとくべつな馬ではなかった。トウショウボーイ産駒には最優秀2歳牡馬のダイゼンキングがいたし、1月の新馬戦を圧勝したミナガワビクトリー(クラシック登録がなく、故障して一戦しただけで登録を抹消されたが、のちに道営競馬で復帰して道営記念に勝った)はシービーよりも評判が高かった。また、千明牧場の一番馬はマルゼンスキー産駒のコレジンスキー(スプリングS3着、皐月賞18着)と言われていた。馬主は千明大作氏の父千明康氏、調教師もシービーの松山康久氏の父、松山吉三郎氏である。

     しかし、追い込みに転じたミスターシービーは連戦連勝で勝ち進んでいった。細くしなやかな馬体は青く輝き、母親とうりふたつの大きな目をした美少年はクラシックで躍動した。共同通信杯でウメノシンオーに雪辱し、弥生賞はインコースから砂埃をあげて飛んできた。

     皐月賞は土砂降りで不良馬場になった。

     芝コースはまるで泥田のようで、1コーナーで前が詰まってバランスを崩すアクシデントがあったが、気がついたときには泥だらけになって先頭に立っていた。どうやって追い込んできたのかもよくわからない。泥の塊と化した馬群をくぐり抜けてミスターシービーは一冠めを奪取した。父のトウショウボーイは重馬場は大の苦手だったが、シービーは母に似て蹄が小さく、ぬかるんだコースも苦にしなかった。母の血で、史上初の父子二代の皐月賞馬になった。

     ダービーは因縁のコースだった。

     初代と父はダービーで、母はオークスで、逃げて負けた府中の2400㍍をミスターシービーはどう追い込んでくるのか。しかもダービーは1コーナーを10番手以内で回らないと勝てないと言われているレースである。それでもミスターシービーはいくつものタブーを犯しながらダービー馬となった。

     1コーナーをうしろから2、3番手でまわり、動いてはいけない3コーナーから追い上げを開始すると、4コーナーでは内の馬に前を塞がれ、外に空いた1頭分のスペースを狙ったが、一瞬遅れてはいってきた馬を弾き飛ばし、直線はインコースに切れ込むようにして突き抜ける。天衣無縫というよりも傍若無人。やりたい放題のレースでミスターシービーは勝った。強かったが、ちょっと乱暴な走りだった。その結果、吉永騎手が実効4日間の騎乗停止処分を受けるという、なんとも後味の悪いダービーになった。

     それでも千明大作氏は祖父(38年スゲヌマ)、父(63年メイズイ)につづいて父子三代でダービー馬のオーナーとなった。1年の生産頭数が10頭にも満たない群馬県の牧場ということを考えると、快挙というよりも奇跡だった。

     様々な話題を提供して二冠馬となったミスターシービーにはシンザン以来の三冠馬の期待がかかった。シンザンのあと皐月賞とダービーを勝った馬は4頭いたが、菊花賞に出走できたのはタニノムーティエだけである。そのタニノムーティエも喘鳴症を患い、菊花賞は11着だった。無敗の三冠馬になれるだけの力と可能性があったキタノカチドキは7枠19番にシード(単枠指定)されたダービーでコーネルランサーの3着に負けた。

     だから、多くのファンもマスコミも三冠馬を知らなかった。シンザンを知っている人も、三冠馬はもう現れないのではないか、とさえ思うようになっていた。そこに登場したのがシービーだった。

     夏風邪をこじらせて調整が遅れた京都新聞杯は4着に敗れたが、菊花賞に向けてミスターシービーの体調はあがっていた。皐月賞、ダービーと2着だったメジロモンスニーは神戸新聞杯3着のあと故障し、最大のライバルの姿もない。確実に追い風が吹いていた。

     菊花賞はアスコットエイトの大逃げではじまった。ダート馬だが、逃げっぷりも勝ちっぷりも負けっぷりもあざやかな、のちのツインターボやサイレンススズカを派手にした感じの個性派だ。ミスターシービーは指定席の最後方で1周めのスタンド前を通過する。

     向正面にさしかかると、アスコットエイトの役目は早々に終わり、ドウカンヤシマが先頭を奪った。2歳から6年連続で重賞優勝という記録を打ち立てる馬がここぞとばかりに勝負に出た。

     そのとき、うしろでも動きがあった。
    「ぼつぼつ、行くか」

     吉永正人騎手が斜め前にいた菅原泰夫騎手に声をかけた。
    「そうだな」

     カブラヤオーでは三冠は叶わなかったが、菅原騎手は1年前にホリスキーでおなじような位置から追い上げて菊花賞に勝っていた。乗っていたアテイスポート(15番人気、18着)はすでに手応えが怪しくなっていた。

     吉永騎手が手綱を緩めるとミスターシービーが動き出す。首を高くし、どんどん前に行く。3コーナーの坂の上りでは京都新聞杯で万馬券を演出したカツラギエースとリードホーユーを追い抜き、坂を勢いよく下り、とうとうドウカンヤシマも交わしてしまった。

     このとき千明大作氏の頭にはメイズイのことがよぎったという。菊花賞では単勝支持率83・2%という空前絶後の人気を集め「メイズイが勝てなければ永遠に三冠馬は出ない」とまで言われながら暴走気味に逃げて6着に惨敗してしまった。シンザンの前の年だ。

     しかし、ミスターシービーには余裕があった。4コーナーでは吉永騎手がシービーが気を抜かないように馬体を併せる馬を探したが、追いかけてくる馬はいない。そのまま直線を独走し、ビンゴカンタに3馬身の差をつけてゴールする。

     83年11月13日、ついに19年の空白が埋められた。

    菊花賞を勝利したミスターシービーは、日本競馬史上3頭めの三冠馬となった©H.Imai/JRA

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