競馬場レースイメージ
競馬場イメージ
出走馬の様子
馬の横顔イメージ

story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 21

京都に愛された名ステイヤー
ライスシャワーの気迫

三好 達彦 TATSUHIKO MIYOSHI

2017年3月号掲載

京都競馬場で3つの長距離GⅠを勝利、しかも名馬の"偉業"を阻止したことで強い印象を残した名ステイヤー・ライスシャワー。類まれな勝負根性は歴代屈指だろう。

    1993天皇賞(春)©H.Imai/JRA

    すべての写真を見る(7枚)

     キーストン、テンポイント、サイレンススズカなど、競走中に落命した名馬はその悲劇性ゆえ、ことに強い印象を残すものだ。そのなかでもひときわ異彩を放っているのが1995年の宝塚記念のレース中に重傷を負って命を絶たれたライスシャワーである。

     92年の菊花賞と、天皇賞(春)を93年と95年の二度制し、GⅠ競走を3勝したことは立派だが、その反面、凡走したレースも数多く、歴史的名馬と呼ばれる優駿たちに比べると成績の面で見劣りがすることは否めない。

     しかしライスシャワーは95年度のJRA賞特別賞を受賞し、翌96年には京都競馬場の敷地内に慰霊碑が建立された。またJRAが2000年に行ったファン投票企画『20世紀の名馬大投票』では、顕彰馬のメジロマックイーンやテイエムオペラオーらを抑えて11位にランキングされている。

     当時からこれを「過剰な評価」とし、その悲劇性が強調され過ぎだという声は少なくなかった。しかしライスシャワーは今も多くのファンに愛され、歴代の名馬に伍して語られ続けているのもまた確かである。ここでは彼が歩んだ時代の競馬シーンを振り返りながら、その人気のわけを改めて考えながら筆を進めることにしよう。

     ライスシャワーは89年3月、北海道登別市にあるユートピア牧場で誕生する。そこは、かつてクリフジ、クリノハナで二度の日本ダービー制覇を成し遂げた栗林友二が創業した名門牧場である(当主は栗林英雄)。

     父は英ダービー馬ロベルトの直仔、リアルシャダイ。社台ファームの代表であった吉田善哉の所有馬としてフランスで競走生活を送り、ドーヴィル大賞(G2)に優勝したほか、G1のジョッキークラブ賞(仏ダービー)を2着、サンクルー大賞を3着、凱旋門賞でも5着に入った実績を持つ。現役を引退して84年から日本で種牡馬入りすると、2世代目の産駒から桜花賞馬シャダイカグラを送り出して大きな注目を集めていた。

     母のライラックポイントは、8戦8勝で無敗のまま引退した“伝説のスーパーカー”マルゼンスキーの初年度産駒。勝ち鞍は条件戦の4つのみだったが、母系の血統に目を移すと、曾祖母クリノホシの兄に前述したダービー馬クリノハナの名が見えるなど、ユートピア牧場が大切に育てた血脈を受け継いでいた。

     礼宮文仁親王殿下(現・秋篠宮)と紀子妃殿下の御成婚にちなんでライスシャワーの名を冠せられたともいわれるライラックポイントの第4仔だが、牧場時代からあまり大きな期待を寄せられていたわけではない。400㌔を少し超えた程度で、牡馬としては体が小さかったからだ。

     2歳の3月に美浦トレーニング・センターへ入厩するが、調教師の飯塚好次も同じような印象を持ったという。ただそのぶん仕上がりも早く、8月の新潟競馬でデビュー戦を迎えることができた。「ぶざまな競馬はしないだろう」とぐらいに思って送り出した芝1000㍍戦で、ライスシャワーは2番手から抜け出して快勝した。続く新潟3歳S(現・2歳S)は11着に大敗したが、距離が1600㍍に延びたオープン特別の芙蓉Sでは重馬場をものともせず、4コーナーで先頭に立ってそのまま押し切った。
    「もっと距離が延びたら、もっと良さが出てくるかもしれない」

     レース後に飯塚はそう感じて、この小柄な牡馬に淡い期待を抱いた。しかしその後、調教中に右前肢を骨折。休養を余儀なくされた。
     美浦トレセンで雌伏の時を過ごすこと約半年、3月のスプリングSで戦列に復帰した。しかし牡馬クラシック戦線は、戸山為夫調教師によるハードトレーニングで鍛え上げられた強靭なフィジカルで他を圧し続けるミホノブルボン一色に染め上げられ、ライスシャワーは忘れられた存在となっていた。事実、スプリングSと皐月賞では、優勝したミホノブルボンからそれぞれ1秒6、1秒4も離されて大敗。続くNHK杯でも8着に敗れて、日本ダービーでは18頭立ての16番人気、単勝オッズは万馬券となるようなありさまだった。

     しかし当のライスシャワーは復帰後3戦を叩かれながら、確実に調子を上げていた。体重を見てもそれは明らかで、スプリングSの450㌔から20㌔も絞れて、やや細いぐらいにスカッとした体形を取り戻していた。

     その日本ダービーでライスシャワーは低評価を覆し、驚きの好走を見せた。積極的に2番手を追走し、直線で一度はマヤノペトリュースに交わされながら、それをわずかに差し返しての2着入賞。皐月賞から手綱をとっている的場均は体の小ささに似合わぬタフな走りに、ステイヤーとしての高い資質を感じ取っていたという。

     ただし逃げ切ったミホノブルボンとの差は4馬身と、この時点では決定的なビハインドと言えた。ファンも関係者もニューヒーローの二冠達成にただただ沸き立っていた。

    01
    04