競馬場レースイメージ
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出走馬の様子
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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    9戦目にして初めての敗戦を喫したジャパンC

     3戦目はジャパンCの行われた東京競馬場でのレースであり、これも和田や野平が世界のホースマンに「日本にもこんなに素晴らしい馬が控えている」というのをみて欲しくて出走させたという話が、囁かれたものだ。

     和田も野平も亡くなっている現在、そのあたりの真意は確かめられない。しかし、当時、外国馬の関係者が口にしたと報道された次のようなことはよく覚えている。

    「日本の三冠馬がなぜジャパンCに出てこないのか!?」

     シンボリルドルフがまだ2歳だったこの頃、競馬界の主役はシンザン以来、19年ぶりに出現した三冠馬・ミスターシービーだった。後方から豪快に追い込み三冠を制したミスターシービーは、偉業達成直後のジャパンCを回避していた。

     ジャパンCが産声をあげたのは2年前の81年。日本競馬初の国際レースであり、世界へ向け大々的にピーアールした競走だった。

     そんなレースが誕生して、3回目で日本に三冠馬が現れたというのは、願ってもないタイミングだったはずだ。

     しかし、当時は今とは番組の編成が違っていた。ミスターシービーの制した菊花賞が行われたのは11月13日。そして、ジャパンCは同27日。つまり中1週しか間隔が開いていなかった。新たに番組に組み込んだばかりのジャパンCは、3歳馬の出走をあまり考慮していなかったのである。

     これではミスターシービー陣営を責めることは出来ないのは誰の目にも明らかだった。

     ところが、その1年後、果敢にこの臨戦課程で世界に挑んだのがシンボリルドルフであった。

     84年、3歳となり皐月賞、日本ダービー、菊花賞と危な気なく勝利したシンボリルドルフは、史上4頭目の三冠達成を成し遂げると同時に、史上初めての無敗の三冠馬となった。

     そして、外国のホースマンからのリクエストに応えるように、中1週にもかかわらずジャパンCに出走してきたのである。

     結果、ここでデビュー9戦目にして初めての敗戦を喫してしまう。

     厳しい臨戦課程だったことに加え、レース直前に腹を下していたことなども敗因として取り上げられた。また、後方に控える1番人気のミスターシービーを警戒した外国勢をはじめとしたジョッキーがスローで逃げるカツラギエースの実力を軽視してしまったため、流れが極端に遅くなったことも最大の敗因と考えられた。

     敗れてはしまったものの、シンボリルドルフの果敢な挑戦は競馬会を動かした。87年には菊花賞からジャパンCまでの間隔が中2週に開いた。そして、現在はさらに開き、中4週となり、菊花賞に出走した馬がジャパンCへ向かうのも決して厳しい路線ではなくなっている。あまり知られた話ではないが、シンボリルドルフとその陣営が残した遺産の一つだと私は思っている。

    史上初となる、無敗での三冠制覇を成し遂げ、鞍上の岡部幸雄騎手は指を三本立てた 【H.Imai(JRA)】

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