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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 50

人馬一体で駆けた超特急
キーストンが残したもの

松田正弘 MASAHIRO MATSUDA

2020年3月号掲載

距離の不安を払拭し、スピードを遺憾無く発揮した快足のダービー馬。
不意に訪れた最期に見せたのは、人馬の固い絆だった。
どれだけ時間が経とうとも、競馬に関わる限り、その姿を決して忘れない。

    ©JRA

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     人馬一体という言葉を聞いて思い浮かぶコンビは人それぞれだろう。岡部幸雄とシンボリルドルフ、的場均とライスシャワー、柴田政人とウイニングチケット、和田竜二とテイエムオペラオー、そして武豊とディープインパクト……。数え上げればキリがないが、僕にとっての人馬一体とは、圧倒的に山本正司とキーストンのコンビである。

    「未来に語り継ぎたい名馬物語」というこのシリーズ。例えばシンザンやシンボリルドルフやディープインパクトなどはおそらく、誰も何もしなくたって、永久に、自然に語り継がれてゆくのだろうと思う。それほど彼らの強さはとてつもなく、記憶にも記録にも残ってゆくものだ。けれど、このシリーズに登場してきた幾頭かの名馬たちは、もしかすれば時の流れとともに、いつしか未来の競馬ファンの記憶から消えていってしまうかも知れない競走馬たちだ。だからこそこうして、未来の競馬ファンのためにもきちんと語り継いでおく必要があるのだと僕は思っている。彼らはみんな、決して忘れ去られてはいけない素晴らしい競走馬たちだから。キーストンも、そんな未来永劫語り継がれてゆくべきサラブレッドの一頭である。そしてキーストンを語るとき、そこにはやはり山本との人知を越えた絆に触れないわけにはいかない。

           ◇

     キーストンは昭和40年のダービー馬である。僕は昭和32年生まれの62歳。当時8歳だ。だからおそらく僕はキーストンを語るには若すぎる競馬ファンなのかもしれない。ただ、小学3年生からの3年間ほど僕とヒトシ、ヤス、ヨシヒロの4人は競馬に夢中だった。僕たち4人は毎週毎週僕の家の白黒テレビの前で、食い入るように競馬中継を観ながら、王や長嶋を応援するようにマーチスやタケシバオーやカブトシローやスピードシンボリやキーストンなどに熱い声援を送っていた。それぞれの贔屓の馬が出走する放送日は特に盛り上がった。それはオッズや払い戻しなどには一切無関係の、純粋で無垢な愛情だった。その中で、キーストンの熱狂的ファンだった僕には、ここでキーストンを語る資格が少しはあるのかも知れないとも思っている。

     競馬中継が終わると、僕たちは競走馬に見立てた寿箸(元日の食卓に家族それぞれの名前が書かれた箸袋に入っている箸)を握りしめ、近くの小川に駆け出す。それぞれ好きな色に塗った“愛馬”を、ヨーイドンで小川に流す。そしてヒトシが実況する中、脇の畦道を逃げろ逃げろ! 抜かせ抜かせ! と叫びながらゴール地点まで付いて歩く。もう楽しくって仕方なかった。

     僕のキーストンとヤスのマーチスはいつも強かった。

           ◇

     僕は29歳で食堂・居酒屋「風景」を開業した。大学を卒業し、普通にどこかの会社に就職することも考えたが、ただ、自分が毎日ネクタイを締め、スーツを着、革靴を履いて仕事をするというイメージがどうしても浮かばなかった。叔父が経営するレストランで働き、飲食業の基本を学んで独立開店した。もう33年前のことだ。こうして自分の店を構えたおかげで現在もあの頃の3人とは交流が続いている。僕を含めた4人が揃うことはめったにないが、ヒトシもヤスもヨシヒロも、それぞれで店に顔を出してくれる。ヤスとヨシヒロは競馬をしないが、それでも50年前の当時の話をよくする。毎日一緒に遊んでいたこと、箸競馬や当時それぞれが好きだった競走馬のこと、そして昭和42年の阪神大賞典で僕たちが目撃した、キーストンのあの姿のことなど……。

    アメリカの超特急を由来に名付けられたキーストン。その姿は死して半世紀が過ぎた今でも、多くの競馬ファンの心に刻まれている©JRA

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    低評価をよそに連戦連勝
    そしてライバルの出現

     キーストンはデビュー前から評判になるような良血統馬でも素質馬でもなかった。デビュー戦もダービーも最後のレースも騎乗した山本(後に調教師、2016年永眠)は、キーストンとの出会いをこう語っている。

    「第一印象は、小さな馬やなあ、というところでしょうか。体は小さいし、気性もおとなしく、なんの特徴もなかった。乗ったら乗ったでいやにゴツゴツしていて、何をするにもスムーズさがない。これは走らんやろなあと思いました。調教に乗った助手も、ホンマにこれで競走馬になるんかいな、と言ってました」

     また、キーストンの馬主で、当時関西でも屈指の大オーナーだった伊藤由五郎氏もこんな発言をしている。「コダマ(昭和35年日本ダービー優勝)は最初から期待していた馬なので、ダービーは緊張したが、キーストンにはそんな期待はなかったし、3歳(現在の2歳。以下、当時の表記)のレースで終わる馬だと思っていたから、ダービーは気楽に観ていた」

     周囲のこんな評価をよそにキーストンは函館競馬場でのデビュー戦を10馬身差で圧勝する。さらに札幌競馬場での3歳特別や京都3歳ステークスも勝ち5連勝。この年の最優秀3歳牡馬を受賞する。けれど、それでもクラシック候補の主役を張ることはなかった。それは、キーストン自身の能力云々ということではなく、この年にはファンやマスコミの注目を一身に浴びるスターホースがいたからである。

     そう、ダイコーターだ。

     ダイコーターは、自身の素質も超一流だが、取り巻く環境も凄かった。馬主は、“神馬”シンザンの橋元幸吉氏。そして鞍上はスタージョッキー栗田勝だ。キーストンの山本は華やかな栗田とは対照的に、ビッグレースでの勝利とは無縁の、地味な存在であった。

     4歳の春、キーストンは弥生賞を勝つ。栗田は弟弟子である山本に電報を打った。《おめでとう。今度はおれの馬でキーストンを負かす》

     この電報をマスコミは、栗田と山本の確執という形で報じ、人間の情念を勝負に絡ませ、面白おかしく書き立てた。ファンもそれを信じ込み、いつしか栗田と山本は敵対関係にあるような風潮が広まる。事実は決してそんなことはなかったのだが、キーストンとダイコーターの対決を前にこの風潮はマスコミの狙いどおり盛り上がってゆく。

     4歳の2戦目、キーストンはスプリングステークスでダイコーターと対戦する。3歳時、キーストンが勝った京都のオープン競走で、ダイコーターは7馬身差の3着に敗れている。けれどこのスプリングステークスではあの電報の予告どおり、逃げるキーストンをゴール前で捉えてみせ、クラシック候補ナンバーワンの名を不動のものにするのである。

     迎えた最初のクラシックレース、皐月賞でキーストンは14着という惨敗を喫する。勝ったのは伏兵チトセオー。ダイコーターは2着だった。ただいずれにせよ、ダービーはやはりダイコーターが勝つだろう、というのが圧倒的な下馬評であった。

    1965年弥生賞●優勝:前年7月のデビューから5連勝で東上。山本正司騎手と人馬ともに重賞初制覇を果たした©JRA

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    1965年スプリングS●2着:圧倒的支持を集めて逃げるも、ライバルとなるダイコーター(右)の前に初黒星。距離の不安も囁かれた©JRA

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