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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 31

類稀なる才能で世代の頂点に。
キズナのさまざまな“絆”

軍土門 隼夫 HAYAO GUNDOMON

2018年3月号掲載

武豊騎手を背に日本ダービーで世代の頂点に立った『キズナ』。3歳秋には凱旋門賞挑戦のためフランスに渡り、前哨戦では同世代の英ダービー馬に勝利した。
異国の地でも、類稀なる才能を遺憾なく発揮した同馬の歩みを振り返ろう。

     キズナについて思い返していると、さまざまな物事が、鮮やかなビジュアルを伴って甦ってくる。

     額にポツンと輝く白い星。まるでサラブレッドの完成形のような、素晴らしく均整のとれた馬体。

     長い首を下げ、リズミカルに動かして走るフォーム。大きなストライドで繰り出す豪快な末脚。

     外から他馬を1頭、また1頭と抜いていったダービーの直線。先に仕掛けたトレヴを追いかけ、果敢に動いていった凱旋門賞のフォルスストレート。そして、水色の地に赤い十字のタスキが印象的な勝負服に身を包んだ、武豊騎手の姿。

     そんないくつもの記憶の中で、ごく個人的にだけど、妙にいつまでも頭に残って離れないものがある。キズナの姿や動きに関するものではない。取材の中で聞いた、あるエピソードだ。

     2013年5月末。キズナが第80代ダービー馬となった数日後、僕は本誌の取材で、編集者とともに鳥取県伯耆町にあるノースヒルズの育成施設、大山ヒルズを訪れていた。

     僕たちが東京から到着したとき、ゼネラルマネージャーの齋藤慎さんはテレビ局による取材を終えたところだった。じつはちょうどこの日、キズナがダービーの激闘の疲れを癒やすため、栗東トレーニング・センターから戻ってきていたのだ。

     この地域で映る民放テレビ局は3つあったが、うち2局に、NHKと地元のケーブルテレビ局を加えた計4台のテレビカメラが来ていたと齋藤さんは教えてくれた。コメントはもちろんなのだが、それらのカメラがまず撮りたがったのは、到着した馬運車からキズナが降りるシーンだった。
    「みなさん、鳥取出身のダービー馬が凱旋、という取り上げ方をしてくれているんですよ」

     齋藤さんは感慨深そうに言って、続けた。
    「生まれは北海道ですが、育ったのはほとんどここですからね。鳥取からダービー馬が出た、と喜んでもらえているんです。嬉しいですよ」

     これがただの「ちょっといい話」ではなく、いかにもキズナらしいエピソードだったのだと気づいたのは、それからずいぶん経ってからだ。

     キズナに限らず、どの競走馬にも母がいて、父がいる。生産者がいて、育成に携わった人がいる。調教師や厩舎スタッフがいて、騎手がいる。オーナーがいる。そしてファンがいる。みんなそうだ。

     でも稀に、そういった“絆”の存在をとても強く感じさせる馬がいる。

     大山ヒルズで齋藤さんから聞いたのは、キズナと鳥取の“絆”のエピソードだった。そしてキズナは、そういうものを他にも、不思議なほどたくさん持っている馬なのだった。

    生産馬の中でも、早くから
    大きな期待を受けた、特別な馬

    佐藤哲三騎手が鞍上を務めたデビュー戦(写真)と2戦目の黄菊賞。いずれも出走メンバー中、最速の上がり3ハロンタイムを記録しての快勝©S.Katsura

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     キズナは10年3月5日、北海道新冠町のノースヒルズ(当時の名称はノースヒルズマネジメント)で生まれた。ノースヒルズは、馬主の前田幸治さんがオーナーブリーダーとして活動するために1984年に当地に拓いた牧場(創設時の名称はマエコウファーム)だ。

     母のキャットクイルはカナダで生まれ、イギリスで走り2戦未勝利で引退。94年に繁殖牝馬として現在のノースヒルズへやって来た。ビワハヤヒデ、ナリタブライアンを産んだ名牝パシフィカスの半妹という良血への期待通り、初仔の牝馬ファレノプシスは98年に桜花賞を勝つ。前田幸治さんにとっては馬主になって16年目、牧場開設から15年目での、待ちに待った初GⅠ勝ちだった。

     この桜花賞でファレノプシスの手綱を取っていたのが、武豊騎手だった。

     キャットクイルは20歳の春に、8番目の仔としてディープインパクトの牡馬を産む。ファレノプシスの、じつに15歳下の半弟として出産したこの馬がキズナだ。キャットクイルはその後も交配を続けたが、死産、不受胎、死産と続き、14年に24歳で死亡している。結果的に、キズナが最後の仔となってしまったのだ。

     初仔の姉が牧場初のGⅠホースとなり、最後の仔である弟が、牧場初のダービー馬となる。15年の時を経て結びついた血の“絆”。それは、その両方に騎乗していた武豊騎手との“絆”のドラマでもあるのだが、それはまた後述する。

     キズナに関するエピソードで最もよく知られているものの一つが、馬名の由来だろう。

     キズナが1歳になった11年の春。前田幸治さんは生産馬であり所有馬のトランセンドを、UAEで行われたドバイワールドCに出走させた。

     折しも、そのわずか2週間前に発生した東日本大震災で国内は大混乱に陥っていた。しかし現地に赴いていた日本の人馬は、準備段階から厩舎の垣根を超えて結束。世界を相手にヴィクトワールピサが優勝、トランセンドが2着と、ワンツー決着を飾ってみせた。両馬の能力の高さは十分に認めた上で、それでもこの結果は、ほとんど奇跡と呼ぶにふさわしい、感動的な偉業だった。

     未曾有の国難にあたり、日本中で人々が助け合う中、いつしか“絆”という言葉が頻繁に使われるようになっていた。そして前田幸治さん自身、観戦に訪れたドバイで、ホテルから競馬場までどこへ行っても温かな励ましの言葉をかけられたことに感銘を受け、次の世代で最も期待できる馬に「キズナ」と名付けよう、と決意する。

     その期待馬こそ、ファレノプシスの15歳下の弟であるディープインパクトの牡馬だった。

     そんな経緯からもわかるように、1世代で50頭ほどいるノースヒルズの生産馬の中でも、キズナは早くから大きな期待を受けた、特別な馬だった。

     牧場スタッフの誰に聞いても第一印象は「カッコいい馬」だったというキズナは、1歳10月、育成調教のため鳥取県の大山ヒルズへ移動。2歳8月に栗東トレーニング・センターの佐々木晶三厩舎に入厩するまで、約10カ月をそこで過ごす。

     ちなみに大山ヒルズは一般見学はできないが、地元との交流のため、年に1回ほど伯耆町主催の牧場見学会が催されている。キズナはその場でも期待馬として紹介されていて、そういったところからも鳥取との“絆”は深まっていた。

     2歳10月、キズナは京都の芝1800㍍の新馬戦でデビューした。鞍上は、佐藤哲三騎手だった。

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