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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    JC制覇を果たした日の夜
    海外遠征計画が動き出した

    【JRA】

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     95年3月17日に誕生したエルコンドルパサーは日本で競走生活を送ることになり、管理調教師に指名された二ノ宮敬宇調教師がデビュー戦に選んだのは、97年11月8日に東京で行われたダート1600㍍の新馬戦だった。血統的に芝が良いことは承知していたし、脚元に格段の不安があったわけでもなかったが、調教での様子からスピードがありすぎることがわかっていた同馬を、冬を間近に控えて路盤が固くなりつつあった芝コースで走らせ、怪我をすることを二ノ宮調教師は恐れたのだ。栴檀は双葉より芳し。競走馬の中にはもちろん、年齢を重ねるにつれて力をつけていく遅咲きの大器もいる。だが、ディープインパクトがデビュー前の追い切りで、あの武豊をして「ついに出た!」と言わしめたように、エルコンドルパサーも最初からモノが違っていた。ダッシュがつかずに離れた最後方を追走したエルコンドルパサーは、直線に向いて鞍上の的場均騎手がおもむろに大外に持ち出すと、1頭だけ別のレースをするかのように駆け抜け、2着以下に7馬身差をつける快勝。衝撃のデビュー戦となった。

     無傷の5連勝でNHKマイルCを制した後、夏休みをとったエルコンドルパサーの秋初戦となったのが、競馬ファンの間で今も「伝説の一戦」として語り草となっている毎日王冠(芝1800㍍)だった。前走まで手綱をとった的場騎手が、苦渋の末に前年の2歳王者グラスワンダーに騎乗することを決めたため、初めて蛯名正義騎手が手綱をとったエルコンドルパサーは、サイレンススズカの逃げを捉えることが出来ずに2着となり、ここで国内唯一となる敗戦を喫している。

     父がマイラーであったがゆえ、一気に600㍍延びる距離を懸念する声もあって、次走のジャパンC(芝2400㍍)におけるエルコンドルパサーは3番人気という評価だった。ここで2着エアグルーヴに、当時としてはレース史上最大となる2馬身1/2差をつける快勝を演じ、国内2度目のGⅠ制覇を果たした、その日の夜。更なる高みを目指したプロジェクトが動き出した。かねてから温めていた海外遠征計画を実行に移すことを決断した渡邊隆氏が、知恵袋となる顔触れを召集。いつ、どこで行われるレースを目標とするのか、現地の拠点をどこに置くか、どういう陣容で臨むのかなどが話し合われたのである。召集されたのは、前出の桜井盛夫氏、競馬週刊誌で海外ニュースを担当していた奥野庸介氏、そして不肖・合田の3名で、二ノ宮調教師を含むメンバーはその後も定期的に会合を持ち、遠征計画が練り上げられていった。

     渡邊隆氏が遠征を希望した欧州で成果を出すには、スピードシンボリのような長期滞在でなければ難しいとの見解のもと、4歳時はシーズンを通じて欧州で競馬をするという骨子がまず固まった。桜井氏の古くからの知人である仏国のトニー・クラウト調教師がラモルレイに構える厩舎を拠点とすることが決まり、海外遠征には不可欠とされるレーシングマネージャーに、同じくクラウト厩舎を拠点としたタイキシャトルの遠征に帯同した経験のある多田信尊氏が指名され、チームに加わることになった。現地で調教に騎乗したのは、美浦で指折りの腕利きと評判だった佐々木幸二調教助手だった。

     確勝を期したはずだった、欧州初戦のイスパーン賞(芝1850㍍)で2着に敗れた後、欧州の12ハロン戦を乗り切るスタミナに不安があった陣営に「この馬は12ハロンでも問題ない」と説き、サンクルー大賞(芝2400㍍)を勧めたのが、滞在先の主であるクラウト調教師だった。前年の凱旋門賞馬サガミックス、前年の仏ダービー馬ドリームウェル、前年のバーデン大賞勝ち馬タイガーヒルなど「近年最高のメンバーが揃った」と言われたサンクルー大賞を、エルコンドルパサーは2馬身1/2差で快勝。欧州競馬の総本山ともいうべき12ハロン路線のGⅠを勝つという金字塔を打ち立てるとともに、秋の凱旋門賞を目指す有力馬の一角に急浮上した。

     3頭立てとなった前哨戦のフォワ賞(芝2400㍍)を逃げ切って臨んだ凱旋門賞で、エルコンドルパサーは、仏国と愛国のダービーを制していたモンジューに次ぐ2番人気となった。大一番を前にした追い切りに日本から駆け付けたのが、スピードシンボリの主戦を務めた野平祐二氏だ。日本の馬が遂に人気馬として凱旋門賞に出ることになり、嬉しくて駆け付けたという野平氏の言葉に、渡邊隆氏は目頭が熱くなった。日本馬が初めて、欧州の最高峰に立つかもしれない。世論の盛り上がりに押され、NHKが急遽、レースの模様を生中継することになった。

    渡仏直後は慣れない現地の馬場に苦労したそうだが、日を追うごとに適応していったという 【H.Imai(JRA)】

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